作り置きヘルシーコールスロー

PiNK 2020 Spring Issue (Japanese text only) すりごまが水分を吸収してくれるので、お弁当にも入れやすいコールスローです。どんなおかずにも合うように、マヨネーズを加えずさっぱり味に仕上げています。 【材料】4人分 【調理時間】10分 キャベツ:大4枚(200g) にんじん:1/3本(50g) 塩(塩もみ用): 小さじ1/2 コーン缶:小1缶(固形量120g) Aすりごま:大さじ2 Aお酢:大さじ1 A砂糖:大さじ1 Aなたね油:大さじ1 A塩こしょう:少々 【作り方】 キャベツとにんじんは千切りにし保存用ポリ袋に入れる。塩(塩もみ用)を入れて袋の外からもみ、5分ほど置く。出てきた水分をしっかり絞って、袋の口から水を捨てる。 1に、水気をよく切ったコーン缶、【A】を加えて混ぜる。冷蔵庫で3日ほど保存できる。

食物繊維・Ca・鉄分摂取!小松菜とえのきの塩昆布納豆和え

PiNK 2020 Spring Issue (Japanese text only) 日本人に不足しがちな食物繊維・カルシウム、鉄分が美味しく摂れるレシピです。時短で出来て、簡単です。塩昆布と納豆の旨みで、小松菜が美味しく食べられます。 【材料】2人分 【調理時間】2人分 小松菜:1束(200g) えのき:100g 納豆:1パック(50g) 塩昆布:10g ごま油:小さじ1 【作り方】 松菜はさっとゆでて冷水にさらし、水気をしっかり絞り、食べやすい長さに切る。 えのきは石づきを取って、長さ半分に切る。耐熱ボウルに入れてラップをかけ、レンジ600wで1分加熱する。 2のボウルに、1の小松菜、納豆、塩昆布、ごま油を入れて混ぜる。

Cancer motivated me to change my life

PiNK 2020 Spring Issue Three people tell us about the changes they made after their breast cancer diagnosis, and how this helped them move forward. I wanted to see the world When I was diagnosed with invasive lobular breast cancer in July 2012, I was in the grip of fear and uncertainty that I imagine […]

Mind Matters 〜Looking after your mental wellbeing〜

PiNK 2020 Spring Issue A diagnosis of breast cancer can be extremely stressful and lead to anxiety, but there are some things you can do to help take care of your mental health, as Rosie Bick explains. Alice-May Purkiss had experienced anxiety and depression for most of her adult life, but felt that she began […]

今を生きる 〜Living in the Moment〜 Part 2

PiNK 2020 Spring Issue 2019年11月、7人の乳がんサバイバーの方々を迎えて行った撮影とインタビュー。みんなで力を合わせて、かたちとなりました。その裏では、自身のスキルを用いて協力してくれたチームの大きな支えがあります。本インタビューでは、チームから5人のプロフェショナルにそれぞれの思いを語っていただきました。 インタビューに参加してくれた皆様 Daniel Ross さん スチール担当 フォトグラファー 東京に拠点を置くフリーランスのフォトグラファー。ポートレートとフォトジャナリズムに特化する。 ニュージーランド・ダニーデン出身。幼い頃から写真を撮り始め、ロイヤルメルボルン工科大学でフォトイメージングを専攻。15年以上にわたって技術を磨く。作品を通してユニークなストーリー、経験、視点を紹介することに情熱がある。 Jane Yamanoさん 衣装・着付担当 米国ロサンゼルス生まれ。上智大学外国語比較文化学科、山野美容専門学校卒業。学校法人山野学苑理事長、山野美容芸術短期大学学長、山野美容専門学校校長。日本美容会の草分である祖母山野愛子のもとで美道を継承し、美容教育に従事する。 MAHIROさん ヘアメイク担当 ヘアメイクアップアーティスト 2009年 バンタンデザイン研究所 卒業 2009年 Shutaro氏に師事 2010年 独立 その後、東京を拠点にフリーランスとして タレント、CM、カタログ、雑誌、PV 等幅広く 活動中。 Nao Nakajimaさん ヘッドウェア担当 デザイナー 2014年31歳で乳がんを罹患。16年再発・転移。17年東京学芸大学大学院修了。同年、ナオカケル株式会社設立。治療を続けながら自らの経験を通して「がんをデザインする」ことに取り組む。代表作は「N HEAD WEAR」。19年「deleteC」プロジェクト発足。 Sora Shimizuさん 映像担当 ビデオグラファー 制作の撮影部で見習いをしながら、プロのカメラマンを目指している。趣味は写真を撮ること、映画を観ること、美味しいコーヒーを飲むこと。 Q: この仕事をしていてよかったなと思える瞬間はいつですか? Danielさん 写真には感情、ムード、物語、アイデア、メッセージを伝える力があります。適切な環境、照明、構図などの重要な要素がすべて揃って完璧な写真が撮れたときが、写真家として最も満足する瞬間です。 誰もが伝えたいストーリーを持っていて、これらの思いが技術と組み合わさったとき、写真は見る人に強いインパクトを与えることができます。そんな写真を撮れるよう常に努力しています。 Janeさん 美容の仕事は本当に幅が広く、YAMANOでは髪・顔・装いという外見美から精神美・健康美という人の内面を育むことまで、トータルビューティで人を美しくすることに特化した美容教育を実施しております。 美容はジェンダーや障がいなどに関わらずバリアフリーで持続可能な分野ということもあり、技術はもちろんのことコミュニケーションやイベントなどを通して多くの皆様のスマイルとハッピーに出会えることがとても嬉しいです。 MAHIROさん ヘアメイクのお仕事はある意味特殊な仕事で、日常の生活にあまり必要とされているものではないので、逆にこのようなお仕事ができているのが幸せだと思いますし、普段の生活で見つけた素敵なものをインスピレーションに想像したものを、仕事の現場で実際に形にできるのはとても面白いことだと思います。 ヘアメイクは人がキャンバスになるので、人肌の温度や質感がその日によって違ったり、出会った時のその方独自の空気感の違いがあったりします。紙とは違い、その時に感じたことや閃きを持って、更にイメージを膨らませるのが楽しいです。 Naoさん […]

Ima wo Ikiru 〜Living in the Moment〜

(Editor’s Note) We apologise that there was a misspelling in Ms. Minako Tomobe’s name in the printed article. PiNK 2020 Spring Issue PHOTO: Daniel Ross In November 2019, we welcomed seven breast cancer survivors and a team of professionals for a photoshoot and interview session. They shared with us how they make the most of […]

[Survivor Story] Chieko Kato

PiNK Fall 2019 TEXT: Chieko Kato (Japanese Text Only) これが私の生きる道 〜がんになったからできること〜 私が乳がんの告知を受けたのは、41歳の秋でしたが、しこりに気がついたのは、その1年以上も前のことでした。左に硬いしこりがあり、生理になるとかなり痛みがありました。痛いのは乳がんではない。そう思い込んでいた私は不安に思いながらも、病院に行くことはありませんでした。 当時の私は仕事が忙しく、中学生の子供の受験、家事と目まぐるしい日々。自分のことを考える時間や、病院にいく余裕などはなかったのです。会社の健康診断で、マンモグラフィー検査を選択しました。初めてのマンモグラフィーで、痛みの原因がわかればいいなという軽い気持ちで受けました。 検査からほどなく、「すぐ精密検査を受けてほしい」と電話連絡がきありました。新規プロジェクトの第1回目の会議の途中でした。「すみません、私明日から出張で2週間後にいきます」と伝えたところ、「そんな時間はありません」と言われました。 上司に報告してたところ、すぐにでも検査に行くように言っていただ頂き、その日のうちに資料を取りに行きました。画像を見ると、たところキラキラと光るようなものが写っていました。「きっと石灰化に違いない。何かの間違いに決まっている」と言い聞かせ、翌日は地元の乳腺外科へ行きました。 診察室に座る間もなく、医者はマンモグラフィーの画像を見ただけで「がんがあるね。」とあっさり。「一応細胞検査をしますが、99.9%がんですね。仕事しているなら休む段取りを考えておいてね。1cmセンチくらいのがんがんだけど、あなたは胸が小さいから温存できないよ。全摘します」頭の中は真っ白になってしまい、「え?乳がん?私が?胸を取ってしまうの?」と思いつつも、「今から出張に行かなくちゃ。プロジェクトを外されたらどうしよう」と現実的なことも考えていました。 とにかく両親に謝りたいと思った私は、その足で実家に出向き、「乳がんになってしまってごめんなさい。」と泣きながら説明をしました。自宅に戻ったところ、子供たちが心配そうに待っていてくれたので「乳がんになったけれど、お母さんは大丈夫だから安心して欲しい」と話し、「これから仕事だから」とスーツに着替え、出張先に出向きました。それからは仕事の合間に、乳がんについて調べる日々。「とにかく胸を失いたくない!」その一念で必死に病院を探しました。 内視鏡が良いいいのではないか?、何とか温存ができないのか? 病院もをいくつかまわりましたが、行きました。どこの医師にも「胸より命」だと言われてしまいます。1cmしかないのだから全摘してしまえば生きられるよ。なぜ迷うのか。なぜ手術しないのか。 私はこんなにも胸を失いたくないのに、誰もわかってくれない。毎日絶望した気持ちで過ごしていました。 当時は、乳房再建が保険適用される前で、私がの住む愛知県では、再建不毛地帯と言われるほど再建手術ができる病院がありませんでした。あっても手術費用が高額で、250万円のところもありました。私は家を新築したばかりで、子供は受験生。これから高校、大学と費用がかかるのがわかっている。そして何より、いつまで生きられるかわからない私が「胸」に拘って大金を使うわけにはいかないのではないか。時間がどんどん過ぎていくことに不安もあったので、「胸は諦めよう」とそう決めて毎日泣いて過ごしていました。 治療の不安も重く圧し掛かってきます。「抗がん剤治療は辛いのか?」「仕事は続けられるのか」「胸を失ってどんな気持ちで生きていったらいいのか」ネットをで見てもブログを読んでも気持ちの整理がつけられず、乳がんを体験した人と話がしたいと思いました。聞きたいことや話したいことがたくさんありました。 そこでインターネットで患者会を探して、いくつか数カ所に連絡をとったところ、「病院の患者しか参加できない」「不定期で、いつやるかわからない」「相談には乗れない」などと、いくつか断られてしまいました。私はまた絶望した気持ちになりました。どこにも誰も私の味方がいないと、そんな風に思いました。一生がんの再発を恐れて生きるより、このまま乳がんを放置して死んでいきたいと思ったほどです。もちろん子供を置いて死ねるわけなどないのですが。 実は私は子供のころからいくつかの大病をしていますが、「死」と向き合ったことはありませんでした。大きな手術やケガを経験しましたが、自分が死ぬなんて考えたことはありませんでした。しかし、がんを患ってから「がん=死」という考えが頭をよぎることもありました。乳がんはいくら生存率が高いとはいえ、自分に当てはまらないかもしれない。いつしか、「残りの人生は人のために生きたい」と考えるようになりました。 病院を探す間も仕事は続けていました。ふと気を緩めると泣いてしまいそうでしたが、仕事に打ち込んでいるときは乳がんを忘れることができ、仕事に救われたと思っています。 また人にも救われました。ある友人は再建手術ができる病院を探してくれ、ある友人には「貯金は全部あげるから受けたい手術を受けてほしい」と言ってもらいえ、毎日のようにお守りや健康に良いと言われているものが届きました。 私の想いや、友人の想いが私を導いてくれたのか、皮下乳腺全摘同時再建ができるクリニックを受診することができました。医師は私に、「乳がんは生きられる病気。長く生きていくことができるから乳房は失わない方がいい」と言ってくださいました。我が意を得たと即座に手術を決めました。 家族や友人は、私をひやひやした気持ちで私を見守ってくれていたことでしょう。手術日が決まったときはら、皆が、涙を流して喜んでくれました。自分ひとりだけで生きているのではないと強く実感しました。 病理の結果は当初言われていた「1cmの初期がん」ではなく、2.5cmが2か所の多発性のがんだと分かりました。私はホルモン治療を選択し、リュープリンとフェアストーンを飲みました。 たかがホルモン治療と思っていましたが、副作用がひどく、自分がどこにいるかわからなくなる症状が出る見当識障害や、全身の関節の痛み、不眠、頭痛に悩まされるようになりました。特に関節の痛みが強く、携帯電話が持てずに落としたり、階段から落ちてケガをしたりすることもしょっちゅうでした。 仕事の効率が落ちていることを気付かれたくなくて必死でした。一日が終わり、家に着くと、玄関先で痛みのあまり泣いてしまいます。そんな私を見て、子供たちは「仕事を辞めたら?」とを言ってくれたこともありました。 しかし、苦しみや痛みはすぐに改善するものではありません。会社を一日でも休むと、明日から次の日はもう行けなくなるのではないかという恐怖があり、絶対に休まず行こうと心に決めていました。 会社を辞めてしまったら、社会復帰ができなくなるいのではないかという不安もありました。 その頃の、自分の体験から、患者同士が集まる場所を持ちたいと考えており、主治医に話をしたところ、クリニックの一室を貸していただけることになりました。これをきっかけに、そして、どこの病院の方が来てもよい定期的に開催される患者会を設立しました。闘病ブログを書いていましたので、 患者会を設立した際には、私の顔を見に来たと全国から大勢の方が参加してくださいました。 患者会、会社、家庭という3本柱で、毎日がさらにハードになっていきましたが、患者会に大勢の方が参加してくださり、「こういう会を待っていた」「患者会に救われた」と言っていただ頂くことが私のエネルギーとなり、よりパワーアップをしていきました。 患者会は定期的に開催をされています。(設立当時は月3回、現在は月6回)乳がんになったばかりの方も多く参加されます。どうしたらよいていいか分からず泣くばかりの方が体験者の話を聞き、気持ちを整理して前を向いていくようになります。また体験者は、自身の体験が次の誰かを救うことに気づき、経験したことが無駄じゃなかったと乳がんを受け入れていくようになります。 患者会の名前は「テッテルーチェ」と名付けました。テッテはイタリア語でおっぱい、ルーチェは光です。暗闇でどうしたらよいのか分からない患者さんたちの希望の光になりたい、という想いが込められています。 患者会には年間で延べ1,000名くらいの方が参加されるようになりました。そんな中、乳がん患者の中に未婚の方が大勢いることに気づきました。「いつか良いいい人と結婚するだろうと思っているうちに年齢を重ねてしまった」「子供も欲しいと思っていた」「結婚しておけばよかった」「結婚したかったと」と、深い悲しみの中におられるいる方が多くいます。母親同伴で来られる方も多く、お母さまが「結婚をさせておけばよかった」と泣かれます。なんて悲しいのだろう。「結婚したいという」その願いを叶えることができたらいいのに。 患者会は良くもよくも悪くも大盛況で、メールや電話での相談も毎日のようにありました。患者会がない日でも、必要であれば夜でも会いに行きました。乳房再建を知って欲しいと企画した講演会は、患者会に救われたと言ってくださった患者さんたちと一緒に開催しました。講演会などやったこともない素人の私たち。PCの使用もままならない方は教室に通ってまで尽力してくれました。それもこれもすべては患者さんたちを救いたい一念によるものです。 私は副作用と闘いながらですが、会社と家庭、患者会を運営し充実感を味わっていました。そんなとき会社から、もっとやって欲しい仕事があるから試験を受けないかと言っていただきました。願ってもいないチャンス!認めていただけたことが嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいでした。 仕事は私にとって、なくてはならないものです。生活のためでもあり、生きがいでもあります。 もっと頑張りたい、チャレンジしたい。しかし、これ以上仕事が増えることに体力の限界を感じました。副作用も日々辛さを増しています。 患者会をやめることも考えました。しかし、がんを告知されたときの苦しみや、「患者会に救われた」と言ってくれたいう皆の笑顔が浮かんできます。亡くなってしまったがんの仲間も思い出し「もし患者会をやめたら私は一生後悔するだろう」と考えました。そこで、せっかく頂いたチャンスを蹴って会社に残るのも違うのではないかと考え、退職を決意しました。 またこの時期、副作用の痛みと不眠が限界を達し、2年で投薬を中止しました。本来であれば5年~10年の治療期間でしたので、心残りはありましたが、これ以上の痛みに耐えながら8年間を過ごすのは無理だと判断しました。 私は、起業をして結婚相談所をつくりました。がん体験者が仲人するがん体験者のための結婚相談所です。がんを体験した苦しみに寄り添い、一緒に前を向いて婚活に取り組むみサロンです。がん体験者と健常者の方との結婚。難しいように思われるでしょうか?全然そんなことはありませんでした。 むしろがんを体験したことで、人に対する感謝の気持ちや、生きていることへの感謝の気持ちを持った方々は人間的に成長していることが多く、どの方にも望まれてご結婚していきます。結婚された方々は「がんにならなかったら結婚できなかった。がんになってよかった」とおっしゃるほどお幸せになられています。 乳がんになったばかりのころは、恐怖と不安で泣いてばかりいました。人生を悲観して、いつまで生きられるのかと、そんなことばかり考えていましたが、今では、いつその時が訪れても後悔しないように、力の限りやりたいことをやって生きたいと思うようなりました。乳がんは悲しくて不幸な出来事だと思います。乳がんになって良かったとは一度も思ったことはありません。でも、「なっても良かった」と思えるようになりました。 これからも患者会と結婚相談所を通して、皆さんの希望の光になりたいと願っています。 加藤 千恵子 Chieko Kato 乳がん体験者の会 NPOテッテルーチェ理事長 […]

[Survivor Story] Miki Yakata

PiNK Winter 2020 TEXT: Miki Yakata (Japanese Text Only) これが私の生き方「自分らしさ」を忘れない 私は、大丈夫! 私は、病気にはならない。このまま変わらない生活が続いていくんだと思っていました。そんな矢先、2018年の冬、25歳の時に乳がんに罹患しました。症状はしこりがあるだけなのに、痛くも痒くもないし、何より体調も良いのに、診断結果はがんだった。診断された時は、カラダとココロのすれ違いにすごく複雑な気持ちを覚えました。 病気に気づいたきっかけは、何気なくやってみた「セルフチェック」。2017年、フリーアナウンサーの小林麻央さんが乳がんで亡くなったというニュースをテレビで知りました。乳がんは、自分には関係ない。あと20年後ぐらいから意識して対策をしていけばいいことだと、他人事のように感じていましたが、麻央さんの訃報を知った時、自分の中にあった「私は大丈夫!」という思いが「私は大丈夫かな?」という疑問に変わりました。疑問に思ったものの、今すぐ病院に行くのか?いや、それは違うと思い、まずはセルフチェックをしてみることにしました。 お風呂に入ったときに、胸に異常が無いか手で触って調べました。初めのうちは、「何をやってるんだろう、自分」「何も無いに決まってるのに」という思いがありましたが、左胸を調べていると固いしこりが胸の左上にある事に気づきました。触ってすぐにしこりだとわかる大きさで、すごく固い。どれくらい固かったんですか?とよく聞かれますが、例えでいうと「ビー玉」の固さでした。それでも、痛みが無いことに少しホッとして、しばらく様子を見ることに。1週間後、再び気になって触ってみるとやはり変わらず、しこりがある。嫌だけど一度検査をしてもらおうと思い、病院に問い合わせましたが、タイミングが悪く予約が取れませんでした。そこで、「しこりはあるけど痛くないし、まあ大丈夫か。時間がある時に行こう」と言い訳をつくり、行かないことにしました。 行動することの大切さ 2017の年末、仲の良い友人の集まりに参加したときにしこりのことを話すと、友人から「明日にでもちゃんと病院に行ってみてもらったら?」と言われ、「そんな、大げさだよ」とも思いましたが、何故かその時は素直に行こうと思い、翌日病院へ行きました。その結果、検査でステージ1の乳がんだということが分かったのです。その時、「大丈夫なんてない」ということと、「できる事から行動することの大切さ」を実感しました。 手術 乳がんだと分かってから、「仕事は?手術は?治療は?」と、考えることが増えました。まずは、再度検査です。マンモグラフィー、エコー、MRI検査、そして脇のリンパ節への転移を調べるセンチネルリンパ生検。病気だと分かっていても、さらに細かく検査をすることが、当時は嫌で嫌で仕方ありませんでした。「でも、やらなければ。わからないこともあるから受け入れなきゃ」と自分に言い聞かせていました。検査の結果、リンパ節への転移が見つかったことでステージ2bとなり、手術の選択をする時が来ました。見つかった当初は、全摘はしなくてもよいと思っていましたが、実際に転移していたことやAYA世代の若年性の乳がんであることから、全摘という言葉が現実味を帯びてきました。 乳腺外科の担当医から手術のパンフレットをもらい、帰宅して読みました。とても分かりやすくまとめられていて、不安と理解を繰り返しながら読んでいましたが、手術方法や再建の選択について読んだ時に初めて「やっぱり胸を切るなんて恐ろしいことは、嫌だ!私は絶対したくない!」と泣いてしまいました。しかし、病気を家族や友達に打ち明けて様々な意見をもらったことも思い出し、「このままじゃダメだ、決めなきゃ!」と決意を固め、全摘手術を選択しました。 嫌だと思うとすぐに落ち込む事ばかりを想像してしまうのですが、母に「もし手術したら再建もするし、あんた胸小さいから大きく作ってもらえばいいんやないの?」と言われたこともありました。「娘に向かってなんてこというんだ?」と思う方もいるかもしれませんが、「手術はすることになるし、もし再建するなら今より大きな胸も確かに良いかも!」とポジティブに考えられる自分がいました。結果的に、遺伝子検査や再建、その後の治療など、様々な選択を限られた時間で決断しなくてはいけないと知ったことで、再建はゆっくり時間をかけて考えれば良いと思うようになり、手術は全摘のみを選択しました。そこからは、片方の胸がないイメージトレーニングを行う日々が続きました。 治療開始 手術後、3週間ほど経って病理検査の結果が分かりました。結果は、ステージ3a。想像していた結果ではなく、ただただ驚きました。今まで主治医の先生と話して泣くことはなかったのですが、正直、その時は涙がこぼれそうになったのを覚えています。ご飯も食べれるし、仕事もできるし、好きな音楽も聴けるし、アニメだって観れて何も変わらない生活なのに、なんで。 「今の自分を受け入れるしかない」と思い、今後の治療について説明を受けると、抗がん剤から始まり、放射線治療、ホルモン療法というフルコース。「こんなに治療をして逆に私の身体は大丈夫なのかな?」と不安しかありませんでしたが、きっといつか治療が生かされる日が来ると考え、治療を受けました。 抗がん剤 抗がん剤治療がスタートしてからは、脱毛の悩みが最初の壁だと思っていましたが、そこは違いました。脱毛以外に、副作用で乗り越えなければいけないことがたくさんありました。実際のところ、髪が無くなる覚悟はしていて、前もって対策やウィッグなどについてインターネットで調べて準備をしていたので、治療開始から10日ほどで抜けた時も乗り切ることができました。ただ、髪が抜けた頭をどうケアすべきか、抜けてからしか分からないものです。頭皮への刺激が寝られないくらい痛かったり、お風呂を上がってから頭をしっかり拭いたのにも関わらず、気づいたら汗が滝のように背中に垂れていたり。時期も夏だったこともあり頭皮の匂いが信じられないくらいのもので、どうすれば良いのか全く分からなくて、ただ嘆いていました。 治療の後は、ぐったりして起きれない事や、むくみが全身に出てしまう事、爪や皮膚の変化、食べ物の味覚や匂いが変化してしまった事、生理が一時的に来なくなってしまった事、消化器官も薬の影響で何日も便が出なくて苦しい日々が続くなど、次から次に起こる変化に動揺することもありました。 アピアランスサポート 治療の間、悩みが絶えない中で私にとっての心の支えになったのは、アピアランスサポートの存在です。 病気を公表した際に、NHK名古屋からのお声がけで「#乳がんダイアリー矢方美紀」という番組がスタートしました。リアルに自分が悩んでいる事や思っていることを映像として日記形式でHPに更新していく。自分もわからないことだらけで不安だけど、番組を通して1人でも多くの方に乳がんという病気について知っていただきたい。病気に罹患しても、夢や諦めたくないことを日々続けているこんな人もいる、ということを番組を通して多くの方に知っていただけるのかなという希望もありました。 映像日記の中で、脱毛の悩みを打ち明けた際に出会ったのがNPO法人全国福祉理美容師養成協会、通称「ふくりび」さんです。番組のディレクターさんから「矢方さんがウィッグや髪の毛の悩みについて相談できる場所が愛知にもあるので、行ってみませんか?」というお言葉がきっかけで、ふくりびさんの施設「あぴサポあいち」にお邪魔したのが始まりでした。そこには、理事長の赤木勝幸さん、事務局長の岩岡ひとみさんがいました。普段の悩みを打ち明けたとき、正しいと思ってやっていたことが実際は間違っていたことや、ウィッグを使う際は自分に合うものを選ぶことの大切さを教えていただきました。 ふくりびさんのウィッグもそのときに初めて被りました。家族以外の人に脱毛してしまった頭を見せる抵抗がありましたが、説明やウィッグのお手入れをしてくださっているうちにだんだんと心の壁がなくなって、「自分でなんとかしなきゃ。誰かに悩みを相談したら迷惑だ」と今まで思っていた気持ちがすっとなくなったのを覚えています。 このときから、私の頭に合わせてウィッグをつくっていただいたり、ファッションに合わせて長さやカラーもアレンジしていただいたりしました。その日に合わせてウィッグを変えることで、脱毛中もモチベーションを上げて過ごすことができましたし、髪だけでなく、ネイルやメイクの方法についてもアドバイスをいただきました。抗がん剤治療中に友人の結婚式への参列があり、ウィッグのヘアアレンジを普通の美容院でお願いするのは少し勇気がいるし難しいと感じていた時も、ふくりびさんでヘアセットをしていただいた時は本当に嬉しくて、ウィッグを気にすることなく楽しい時間を過ごす事ができました。普段の生活で気をつけることや、心の悩みを聞いてくださったことも、自分の心の支えになっています。 続く治療 抗がん剤と放射線治療を終了し、現在はホルモン療法を行っています。ホルモン療法では1日に1錠、薬を飲み、3ヶ月に1回お腹に注射をしています。治療は意外と楽かと思っていましたが、この治療は10年間。あと9年ほど続きます。 ホルモン療法が始まってから、ホットフラッシュと言われる現象が常に起こっています。急に体がガッと熱くなってきたり、イライラしたり。そんなに気にならないだろうと思っていましたが、移動中に汗だくになってしまったり、温度調節が上手くできず、周りと体感温度が違ったりする事はとても大変です。こればかりは「周りが気を使ってよ!」なんて言えないですし、言ってしまうのは身勝手だと思うので、普段は薄着で着脱できる服装や冷たい飲み物を常に持ち歩いて、体の中から冷やして体温を下げたりしています。病気にならないとわからない悩みもあるんだと、すごく感じています。 仕事 病気になってから色々な悩みや心配はありますし、正直ゼロになることはないと思います。でも、今も前を向いて進めているのは、変わらず仕事ができている事が関係していると思います。 「さあこれから声優の夢へと本格的に向かっていこう!ナゴヤから自分を発信するんだ!」と思っていた矢先に乳がんに罹患し、「夢も希望も…絶望的だな」と思っていました。もう仕事は絶対できないだろうと思い、これからどうしたら良いのかもわからなくなりました。そんな時、悩みを主治医に話したところ「治療をしながら仕事もできますよ、仕事は辞めなくても大丈夫ですよ」と言ってくれました。その一言が私に希望を与えてくれて、治療はどうなるか分からないけれど、無理しない範囲で仕事を続けることにしました。 乳がんだと分かってからレギュラー出演していたラジオやお仕事を1ヶ月ほどお休みしていましたが、退院した当日にZIP-FM「サブカルキングダム」というラジオの収録現場に見学で参加し、1週間後には、この番組で仕事に復帰することができました。現在もこの番組に出演させていただいています。 「無理はしない」を一番に体調とスケジュールを上手く調整して、今も変わらず仕事を続けています。その中で自分のことを話す機会も増え、初めはどのように伝えれば良いのかとても悩みましたが、この1年で知り合った同じ乳がんサバイバーの方とお話した際に「美紀ちゃんの発信が私の希望だし、本当に嬉しいの!ありがとう!」と言っていただいた事がありました。 私は何も持っていないけど、こうして出会えたことや、抱えている同じ悩みや思いを、より多くの人に知ってもらうきっかけにこれからもなれたらいいなと思っています。 自分がやりたいことに挑戦する 今、仕事もプライベートも好きなことを日々追いかけています。きっとこの先も病気は切っても切れないものだと思いますが、今の私だからこそできることを発信したいです。その中の一つがファッション。私は元々、ファッションが好きですが、乳がんがあってもなくても関係なく、オシャレできるアイテムが必要だと思います。例えば、下着。胸を手術したことをきっかけに、今まで使っていた下着を処分しました。今はカップ付きのキャミソールを2枚重ねて過ごしています。自分にとってもそうですし、誰かが笑顔になるきっかけづくり、これがあってよかったと思えるモノ作りに挑戦していきたいです。これが私にできる事なんだと思います。 未来 1秒先も分からない日々が、これからも続きます。この1年で私はたくさんの方に出会い、支えられ、成長することができました。きっと1人ではここまで変わる事ができなかったと思います。日々の中で当たり前のように起きる出来事をそのままにするのではなく、変化を恐れず、これからも矢方美紀にしかできない事やモノを生み出していきたいです。 矢方 美紀 Miki Yakata 1992年6月29日 大分県出身 7年半所属したSKE48を卒業後、タレントとして活動を始める。 2018年4月、25歳の時にステージ2Bの乳がんにより、左乳房全摘出・リンパ節切除の手術を受ける。 「自身の身体を知る」ことの重要性を伝えるとともに、がんになっても夢を諦めない、前向きに生きている姿を日々発信している。 現在は、テレビやラジオ出演・ナレーション・MC・講演会当、名古屋を拠点に全国的に活動中。

[Survivor Story] Mika Shimokawa

PiNK Spring 2020 TEXT: Mika Shimokawa PHOTO: Sora Shimizu (Japanese Text Only) 生まれ変われるなら、生きているうちに 「これは検査です」 私の乳がんは定期健診で見つかったものではありません。私の左乳房には20代前半のころから「何かコロコロするもの」がありました。まだ乳がん検診受診の啓蒙なども活発ではない時代でしたが、自主的かつ定期的に乳腺外科に行っては検査を受けていました。検査のたびに「良性のものです。心配ありません」と言われホッとしたのを覚えています。 ところがしばらく検査に行けない時期があり、なんとなく「コロコロするもの」が大きくなったような気がして久しぶりに検査を受けたところ「精密検査が必要」と言われました。色々な手法で検査を試みたのですがなぜかうまくいかず、良性か悪性かの判断がなかなかつきませんでした。担当の医師は業を煮やしたのか、「検査のために必要なところを切り取りましょう。そのためには全身麻酔で1泊の入院が必要です。少しですが乳房の変形もします。」と言い、検査のための入院を勧めてきました。 当時の私は「検査のために全身麻酔をして入院する?検査なのに乳房が変形する?」と戸惑うばかりでどうしても理解できず、何回も「それは検査ではなくて、摘出する手術なのではないですか?」と担当医に質問したのですが、「これは検査です」の一点張りでした。説明を求めてもまるでその検査しか選択肢がないような話しぶりで、検査で乳房が変形することに抵抗がある私と担当医の間の溝はそのまま埋まることがなく、担当医に対する不信感が募りその病院に出向くことをやめてしまいました。今でもこの選択が正しかったのかわかりません。 やっぱりがんだった その後、私生活でつらい時期がやってきました。元夫の不貞が発覚し精神的にも肉体的にもボロボロになり、悲しみと苦しみに耐えるのに精いっぱいで将来のことなど考えられない日々で、自分の健康のことなど気にする余裕がまったくありませんでした。 しかし離婚調停が進み結論が見えてきたころに、健康な自分を取り戻して新しい人生を始めようという前向きな気持ちとなり、しばらく後回しにしていた乳腺外科の受診を決心しました。偶然にも前回の担当医に診てもらうこととなったのですが、検査結果を聞きに診察室へ入った瞬間、医師の表情から良くない結果であることが伝わってきました。そして直感通り、医師は険しい表情のまま「がんですね」と診断を下しました。その結果は衝撃というよりも「やっぱり」との思いが強く、診察室にいた看護士さんのほうが動揺しているようにさえ思えました。 医師からはステージ1の浸潤がんであること、手術は全摘か部分切除で、部分切除の場合は放射線治療が必要であること、がんの顔つきが凶悪なので抗がん剤治療が必要であることの説明を受けました。私が手術による乳房の変形のことを気にしていることを伝えると、あたかも「命に係わる問題なのに見た目にこだわっている場合なの?」と言わんばかりのあきれたような表情をされたため、「この医師とは理解しあうことは出来ない。絶対にこの医師の手術は受けない」と決心し、手術をしてくれる別の病院を探すことにしました。 募る焦り ただでさえ離婚騒ぎで心配をかけている両親に、がんが見つかったことを知らせるのはとても心苦しく感じました。しかしこんな大事なことを隠しているわけにはいかないと思いなおし、なるべくわかりやすい言葉で客観的な事実のみを説明しました。両親は驚き、動揺していましたが、姉が「心配しすぎるのもよくない」と両親をなだめ、私の気持ちを汲み取り「自分自身が選択した方法で希望の治療を受けるといい。経済的な心配はいらないから」と後押ししてくれました。 それからは図書館で標準治療ガイドラインの本を読み漁り、インターネットでは乳がんの症例を検索する日々が続きました。ここはと思った病院には予約をいれ受診しようとしましたが、そもそも予約が数か月先までとれない病院や、受診できても手術は半年後しか受けられない病院などがあり、病院探しは想像以上に難航し焦りが募りました。そんな中、とてもきれいな再建の症例を掲載しているクリニックのウェブサイトにたどりつき、そこで「皮下乳腺全摘+同時再建」という方法を知りました。それはまさに自分が望んでいた手術でした。ダメ元でクリニックに電話したところ数日後に予約の空きがあったため急遽有休をとって受診することにしました。担当の医師からは私の症例でも皮下乳腺全摘と同時再建が可能であること、入院は1泊、3週間以内に必ず手術できるよう手配すると説明があり、迷わずその場で手術の予約をしました。 検査を重ね治療方針を決める 今でも手術台に上った時のことを鮮明に覚えています。がんと診断された時泣きはしなかったのに、手術台で担当医から始めますよと声をかけられた瞬間、「やっと手術が受けられるんだ」と緊張の糸が切れたのか涙が溢れ出て止まりませんでした。 手術は無事に終了しがんの診断には変わりはありませんでしたが、リンパへの転移はなく悪性度も高いものではなかったため抗がん剤をするかどうかは自分で決めるよう説明がありました。自分では判断がつかなかったことから、当時は保険適用されていなかったオンコタイプDXという検査を受け、統計学的には抗がん剤をしてもしなくても生存率に変わらないケースということがわかりました。そのため私の治療方針は抗がん剤なし、全摘のため放射線治療もなしで、ホルモン受容性の高いタイプのがんだったためホルモン療法のみとなりました。また姉の勧めもあって遺伝性乳がんについての検査も受けましたが、こちらは陰性と診断されました。 家族をつくりたい 手術も終わり、再開した離婚調停も結審して区切りがついたことから、何か始めようとゴルフスクールに通い出して出会ったのが今の夫です。 知り合って間もない頃に、がん治療中であると伝えることに戸惑いはありませんでしたが、結婚を意識し始めた頃に、妊娠そのものががんの再発リスクを高めるため妊娠や出産ができないことを伝えるのには勇気がいりました。しかし二人で将来を描きながら色々と話をするうちに、産みたいのではなく子育てをしたい、家族をつくりたいという共通の思いに気づいたのです。様々な形の家族が身近にいたためか血のつながりへの拘りがなく、不妊治療は最初から私たちの選択肢にはありませんでした。 夫は建築設計士で児童養護施設の設計に関わった経験から、生まれた家庭で育ててもらうことのできない境遇の子どもたちがたくさんいるということを知り、自然と特別養子線組という選択に至りました。しかし特別養子縁組までの道のりも平坦ではありませんでした。 特別養子縁組で母となる 特別養子を育てる養親となるには、都に養子縁組里親登録をして児童相談所からの紹介を待つか、民間の斡旋団体に登録するか、主にこの二つの方法があります。私たちは結婚してすぐに養子縁組里親の講習を受け、同時に民間の斡旋団体探しも始めました。しかし民間の各斡旋団体においては独自の厳しい養親の審査基準を設けており、これが私たちにとって大きなハードルとなりました。例えば共働きは不可(母親が育児に専念すること)、不妊治療をしたことがなければ不可、年齢制限など、私たちが養親としての応募条件を満たせない団体が少なくありませんでした。 そんな中、応募条件も満たし活動内容のポリシーにも共感できる団体があり応募したところ順調に話が進んだのですが、あと一歩で登録というところで私たちの婚姻年数が短いという理由から断られてしまったのです。婚姻年数の条件を満たすまで待っていたら今度は年齢制限を超えてしまう。後がない私たちは何とかならないかとその団体と交渉を続けました。私たちが無理を言っているのは重々わかっているし、団体の担当の方も電話口で困っている様子がうかがえました。でも、今ここであきらめたら子どもを迎える可能性がなくなってしまうと必死にお願いを続けていると、団体の代表の方が替わって電話にでて「うちでは無理なのですが、素晴らしい信念を基に活動されている方々が最近斡旋団体を発足されたので紹介しましょう」と提案してくださったのです。 私たちはすぐさま紹介された斡旋団体の代表の方に連絡をとりました。これまでの事情を伝えたところ「まずは会ってお話をしましょう」と面談をセッティングしてくれました。面談は終始和やかで、年齢や収入、婚姻年数などの条件だけで判断するのではなく、会ってみた印象や私たちの思いを何よりも重要視してくれていると感じました。そしてその団体への登録が認められ幸運にも男の子を迎えることができ、さらに幸運なことに翌年には女の子を託されたのです。新生児から育てた子どもたちは5歳と4歳になり、傍から見れば普通の親子が普通の毎日を過ごしています。 小さな喜び 私はどちらかというと子どもが苦手なタイプで、親戚の子どもと会った時も何をどう話したらよいのかわかりませんでした。ある日突然新生児が我が家にやってきてまさにてんやわんやでしたが、子どもたちと一緒に暮らす毎日は小さな喜びに満ち溢れていて苦手意識など感じることすらありませんでした。 子どもたちが通う保育園では連絡帳を使って保育士と保護者が連絡を取り合うのですが、ある時ずっと文章で書いていた子どもの様子を1コマ漫画で描いたら、見る保育士さんも楽しいんじゃないかと思い立ち、軽い気持ちで漫画にしてみました。絵のほうが読み返したときにこんなこともあったねと思い出しやすく、何よりも漫画のネタ探しのために「子どもたちが今日こんなことを言ったんだよ」などと夫婦で報告しあうのが日課になり、思いがけない副産物となりました。 家事・育児に関しては「夫婦が完全に同等にできる」ことを目指しています。もちろん各々得意分野は異なるのでそのあたりはうまく比重を分散しますが、もともと料理や裁縫も得意な夫だったので育児についても安心して任せられ、最近では夜の外出もできるようになってきました。ここまでくるのには試行錯誤がありましたがとにかく話し合って、進むべき道を一緒に考えてくれた夫には感謝です。 特別養子縁組は子どもの福祉のための制度ですが、乳がんをはじめとする様々な病気があることで妊娠出産について思い悩む人たちに、子どもを持つための選択肢の一つとしてもっと知られるようになればいいなと思っています。そのためにも私たちが託された子どもたちを大切に育て社会に還し、良い前例の一つとなれたらいいなと思います。 一日一日を大切に 現在術後9年目で、タモキシフェンによるホルモン療法も残すところ2年をきりました。振り返ればいろんなことがありましたし、これからも様々な問題がでてくるでしょう。でも、今の私は「何があってもとりあえず何とかなるんじゃないかな」という気分です。 以前の私は何をするにも慎重派で消極的、何か新しいことを始めるというよりは、始めない理由探しばかりをしているような人間でした。ですが、がんが見つかって自分の命に限りがあることを実感してからは、とりあえずなんでもやってみようかなという気持ちが強くなりました。お恥ずかしい話ですが、気ままにひとりで過ごしていたころは明日も今日と同じ日がやってくると漠然と思っていたし、なんでも後回しにしていたように思います。 それが今では、できることは早いうちにやろう、やりたいことや好きなことはどんどん周りにアピールしよう、そうすればいいお話が舞い込んでくるかもしれない、とまで考え方がガラリと変わりました。もちろん時には過去の自堕落な自分にもどってしまうこともあるのですが、年に1回の精密検査で問題なかったという結果をきくたびに初心に帰ります。健康でいられることに感謝し、まさに「生かしてもらっている」と感じます。一日一日を大切に過ごしたいという思いも強くなり、日々の生活で何か冒険できることはないかな、とアンテナをはるようにもなりました。私にとっては砂漠やジャングルを探検するようなことだけが冒険ではなくて、たとえば駅から自宅までのルートを変えてみる、ランチで目新しいメニューをオーダーする、今までの自分ならお断りをしたようなお誘いでも積極的に受けてみる、などのなんでもないことの小さな積み重ねが冒険や挑戦だと思っています。 乳がんが見つかってから手放したものもあれば、手放した分、新たに手に入れたものもあります。乳がんにならなければ出逢うことのなかった方たち、経験することがなかっただろう素晴らしい機会、変化した人生観など、枚挙に暇がありません。乳がんが見つかったこと自体は私にとって衝撃的な事実であることに変わりはありませんが、自分が変化する大きなきっかけになりました。 ピンチはチャンスとよく言いますが、何か障害が立ちはだかった時に、自分で考え、信頼できる人ととことん話し合って、ひとつずつ地道に乗り越えてきたのが今の自分につながってきたと実感します。陽当たりのよくない、曲がりくねった細い道を、時には双六の「ふりだし」にもどるような経験をしながらもなんとか知恵を絞ってしぶとく歩いてきました。もしかするとちょっと変わった道のりだったかもしれませんし、これからもまた平坦ではないこともあるでしょう。でもその分、一味違った景色を見て来られたのかもしれませんし、これからもなにが起きるか楽しみです。まだまだ冒険は続きますね。 下川 美佳 Mika Shimokawa 東京都在住 2011年11月皮下乳腺全摘、同時再建手術を受ける。金融業界でのSEの経験を活かし、現在は保険関連のビジネスアナリストとしてとして奮闘中。乳がん治療中に知り合った夫とともに特別養子縁組で二人の子どもを迎える。一方、高校生のころからマイナー雑誌への漫画連載で小遣い稼ぎをしていた超長期休筆中の漫画家でもある。最近になってようやく重い腰をあげ、ブログで乳がんが特別養子縁組について発信中。 好きな言葉は「生まれ変わるなら生きているうちに」