[Survivor Story] Kaori Tsukuda

PiNK 2021 Winter Issue TEXT: Kaori Tsukuda PHOTO: Sora Shimizu (Japanese Text Only) 病気はその人のパワーを取り戻すもの 「これは検査です」 「何かあるよ。」 定期健康診断で胸のエコー検査を受けているときに、突然言われました。 「すぐに紹介状書くから、このまま待ってて。検査結果をもって、すぐに病院へ行って。大きい病院だよ、わかった?」 一体、何が起こったの?毎年マンモブラフィーとエコーを受けているのに、突然こんなことがあるのだろうか。検査結果を持たされたのはいいけれど、病院のあてもなく途方にくれました。乳がん経験のある友人に相談し、病院に電話しましたが、予約が取れたのは一ヶ月先。不安な気持ちを抱えたまま、一ヶ月過ごすのか。しかしそこから、小さいラッキーの連鎖が始まったのです。 会社の総務の人にそれとなく相談したら、予約を入れた病院の提携クリニックがあると教えてくれ、電話ですぐに予約が取れました。病院のことを相談できる友人や職場の方がいたのは、本当にラッキーだったと思います。 精密検査を受け、マンモグラフィーと触診が終わった後に担当医に言われました。 「残念ですが、このままお帰りいただくことはできません。針生検をします。」 悪性の疑いがある場合、確定診断するためにマンモトーム針生検という検査があり、太い注射針で組織を採取して調べます。着替えるためにロッカールームへ入った途端、目の前が涙で見えなくなりました。手が震えて検査着の紐が結べなかった。 「結果は一週間後に本院でお伝えしますが、ほぼ悪性だと思いますので、どうするかご家族と相談してきてください。」 こう言われて病院を後にしましたが、相談できる家族もいません。 「どうしたらいいんだ ろう。死ぬのだろうか。でも、もしかしたら良性かもしれない」頭の中がぐちゃぐちゃで した。ただただ涙が溢れて、前が見えなかったのを覚えています。 眠れない一週間を過ごしましたが、幸いにも経験者の友人が数人いて、これもまたラッキーでした。検査結果は、もちろん悪性。その日にすべての精密検査の予定が組まれ、手術日も決まりました。サブタイプはトリプルネガティブで、抗がん剤治療をすると伝えられました。腫瘍が4.5cm 以上あったので、ステージは2A。画像上ではリンパ節への転移も疑われました。 フラフラになりながら会社に戻り、すぐに上司に報告することにしました。 「あぁ、クビかなぁ・・・」怖かったけれど、腹をくくりました。クビになったら、その時にまた考えよう。 「病気でもいいから、いて。」 上司はそう言ってくれました。今でもこのことを思い出すと涙が出ます。 「あなたがいつ辛くてしんどいか分からないから、伝えてほしい。」 この言葉は、気持ちをとても楽にしてくれました。辛いときは辛いと言って良いんだ。治療しながら働けるように会社の制度も変えてくれて、フレックスと在宅勤務が可能になりました。 化学療法の日は、朝8:00 前に出社し、仕事を一時間してから病院で抗ガン剤投与を受け、午後は会社へ戻る生活が始まりました。ウィークリーパクリタキセルという毎週投与を受ける抗がん剤だったので忙しいスケジュールでしたが、会社と病院は歩いて15分。これもまた小さなラッキーでした。髪は抜けましたがそれ以外の副作用はほとんどなく、働きながら治療を続けられたことも本当にありがたかったです。 毎日新しい、わたしだね 治療当時はファッションの会社にいたので、どんな服装でもオーケー。ウィッグにはまり10数個は持っていました。毎日髪型が違っても、誰も気にしません。 「ウィッグかわいい!毎日、新しいわたしだね。」 会社ビルでよく行くコンビニの店⻑さんが声をかけてくれたときは、嬉しかった。 ウィッグ、メイク、ファッション。病気だからこそ、おしゃれをする。これが私の支えになりました。メイクアップセラピストとしての活動にも幅が出ました。どうすれば顔色が良く見えてオシャレに見えるか、全て自分の肌で試していました。 仕事をしながら治療するときは、まわりに余計な気を遣わせないことも一つの礼儀だと思うし、自分への礼儀と励ましだと思います。女性は花なのだから。 追い詰められた私が思ったことは 半年間の術前抗がん剤のおかげで、最大7cmあった腫瘍は約半分の大きさになりました。私は「小さくなったから部分切除かな、それとも全摘したほうがいいかな」と、自分がどうしたいかを考えていました。 そんな中、手術の一週間前に主治医から思いがけない言葉をいただきました。 「全摘します。再建はしないよ」 頭が真っ白になりました。再建の場合、乳腺を全摘後にエキスパンダーという拡張器を挿入しますが、それはしないと言われました。追い詰められた私は、手術を受けないことも 考えましたが、私を良く知る友人たちは「あんたらしいね。でも生きてほしい」と願ってくれました。 私はどうしたいんだろう?何度も自分に問いかけました。生きていくからこそ、胸を失いたくない。再建したい。後日、主治医に時間をいただいて思っていることをぶつけました。 「どんなに私が努力しても、もうどうにもならない。」 そう言って、主治医の前で初めて泣きました。 「分かった、再建しよう。ちゃんとするから、まずは治そう。」 なぜ部分切除ではだめなのか、乳頭乳輪は残せないのかを説明してもらった結果、私でも同じ判断をしただろうと納得しました。思っていたより病状は深刻で、主治医が熟考して出した結論だということも理解できました。正直に思いをぶつけた結果、主治医は受け止めてくれてギリギリまで譲ってくれた。自分の思っていることを伝えるのは大切だと実感しました。この決断は、のちに最善の選択となったのです。 […]

[Survivor Story] Eri Yoshida

PiNK 2020 Summer Issue TEXT: Eri Yoshida PHOTO: Dai Tsukamoto (Japanese Text Only) 偶然をチャンスに変える生き方が好き 小さな異変 あれ、左胸に小さなしこりがある。44歳の時、お風呂に入っていてプクッとした5~6ミリのふくらみを見つけました。触っても痛くないし、小さいし。そのうち無くなるかな?と様子を見てみましたが、そのふくらみは消えませんでした。そういえば、子供を出産して10年近く検診に行っていないなと思い、念のため病院で診てもらうことにしました。 その病院には乳腺外科専門医がいらっしゃいました。何の知識もなく病院を訪ねたので、専門のお医者さんがいるんだ、良かった!と思いました。マンモグラフィック、エコー、レントゲンを撮り、その日のうちに結果を聞くことになりました。医師からは、悪性のしこりではなく、脂肪が固まったもので、将来、悪性になることはないと告げられました。私は「良かった、大したことなくて」と胸を撫で下ろしたのでした。 それからあっという間に一年半が過ぎ、子供も小学5年生となり、手が離れて時間がとれるようになったので、ヴァイオリンの講師と演奏活動に力を入れ出し、多忙な日々を送っていました。しかし、夏休みに家族で旅行へ行った時、なんだかとても体がだるく、夜も眠れないくらいの疲労感に襲われました。家に帰ってきて体調は戻りましたが、何か自分の体に異変が起こっているように感じたのです。 左胸のしこりが大きくなり、左脇にも膨らみがあることにも気が付きました。 その時「乳がん」という言葉が頭をよぎったものの、悪性にはならないという診断を信じ込んでいたので、「いや、大丈夫。でも脇のしこりは何?」と心に影を落としたまま秋を迎えたのでした。 9月の46歳の誕生日のとき、このまま不安を抱えていてはいけない、きちんと診てもらおうと心に決め、乳腺外科専門の診療所に予約を取りました。10月1日、子供の手を引き、楽観的な気持ちと大きな不安を両方を抱えてえ診療所に向かいました。左胸のしこりは大きくなり痛みもあったので、マンモグラフィを撮るのがとても辛かったのですが、良性の腫瘍と思い、心配はしていませんでした。いや、そう思いたかったのかもしれません。名前を呼ばれ診察を受け、私の目を見て先生は仰いました。 「まだ細胞診をしていないから、こんなことを言うのはまだ早いのだけれど、大きな病院でショックを受ける前に言っておくね。僕は多くの乳がん患者さんを診てきた。あなたの左胸のしこりは悪性腫瘍、つまり乳がんの可能性が高い。脇のリンパにも転移していると思う」 青天の霹靂とはこのことね、と頭に浮かんだまま、思考が停止しました。何で?悪性にならないって言ったよね。小さいしこりが小さいのうちに病院で検査したのになぜ?悲しいというより悔しい気持ちが心を襲いました。 「何で?悔しい」と涙をこぼしながら言うと、 「気持ちは分かる。でも今一番にやらないといけないの事は詳しい検査だ。体の他の部位に転移していないか一日も早く調べる事だよ」そして「大丈夫、必ず平和な生活に戻れる。仕事も出来る。諦めちゃだめだ」 先生の畳みかけるような言葉を聞き、これは本当に大変なんだ、命がけなんだ、と感じたのです。 検査 設備の整った病院を紹介していただ頂き、3日後には本格的な検査を始めていました。細胞診、CT、MRI、血液検査を受け、乳がんの説明も丁寧にしていただきました。 乳がんには色々な種類があること。行の度合いや種類によって治療が違うこと。抗がん剤治療を先に行うと腫瘍が小さくなる可能性があることなど。一番私を前向きにさせてくれたのは、抗がん剤の治療をしながら仕事が続けられることでした。「是非、働いて」と先生は言ってくださいました。仕事は続けられる、少し辛いけれど頑張ろうと希望を持ったのです。 新たな壁 細胞診とCTの結果を聞くため、外来を訪れました。その時の不安な気持ちは今でも忘れられません。他の部位に転移していたらどうしよう。助かるだろうか?恐ろしくてその場を逃げ出したくなりました。診察室に入った時、先生の顔が強張っているのが分かりました。私は恐るおそる椅子に座り、先生は口を開きました。 「これを見て下さい」 CTの画像が写り、お腹の中だとわかりました。体の真ん中に大きなものが見えます。胃だろうか、と思っていると、 「この白い物、体の中にあってはいけないものなの。本来、お腹の中にないものが写っているの」 えっ!こんなに大きくハッキリ写っているもの、内臓ではないの? 「腫瘍だと考えられます。多分血液のがん、悪性リンパ腫ではないかと」 血液のがん?乳がんを検査していて他の種類のがんが見つかったのです。私の心は凍り付きました。 「あとどれくらいで死にますか?」その言葉しか出てきませんでした。 「それはまだ早い。調べましょう。明後日から検査入院して」と先生に伝えられましたが、人間は大きなショックがあると、それを受け止めるのに時間がかかるのですね。「仕事があるのですが」と答えていました。「仕事と命、どっちが大事?」と言われても、悪いことが次から次へと起こり、気持ちがついていかない。 気が付くと、廊下で友人に電話をかけていました。仕事を代わってもらえるように頼み、病院での経過を話し終えると、涙が止まらなくなりました。私、だめかもしれない。電話の向こうで「大丈夫だから、きっと大丈夫」という声が遠くから聞こえたのでした。 涙を拭いて 検査結果は、乳がんがリンパ節まで転移し、ステージⅢB。悪性リンパ腫はお腹の腫瘍を取り、もう一度細胞診をしなくてはならず、左胸全摘とお腹を切る手術を同時に受ける事になりました。 手術は5時間あまり。術後に目を覚ますと、医師から「大丈夫。ヴァイオリンは弾けるから」と言われ、ほっとしました。良かった。しかし、全摘した左胸を見ることがはなかなかできませんでした。体を拭く時、自分の体がどうなったのか改めて確認しました。そして、失った左胸のことは、今は考えないようにしよう。これからの治療を乗り越えることだけを考えよう。後ろは振り返らず、前だけを見て進もうと心に決めたのです。 抗がん剤治療 悪性リンパ腫はステージⅣA。骨髄に転移していました。しかし運の良いことに、悪性リンパ腫で使用する抗がん剤と乳がんで使用するものとがほとんど同じ薬だったのです。R-CHOPという治療でした。この抗がん剤治療で両方のがん癌を治せる。しかし、一種類の錠剤を含める4種類の抗がん剤と吐き気止めの点滴を一日で打つのに6〜7時間かかります。朝一番に病院へ行き、病院の電気が暗くなったあと、一番最後に帰るというスケジュールを21日に一度、合計で8回行いました。 副作用は様々な症状がありました。脱毛、吐き気、下痢、便秘、味覚障害、むくみ。体が鉛のように重だるくなり、思うように動けない。水を飲むと変な味がして飲めなくなり、一回抗がん剤を打つごとに体力と、気力が奪われていきました。 髪は抜けることがわかっていたので、治療に入る前にベリーショートにカットしました。大変だったのは抜けた髪の処理。枕や衣服に着いた髪紙をコロコロころころで取るのも体がだるくて時間がかかりました。でも、頭がスキンヘッドになると「この頭もカッコいいかも!」と結構気に入っていました。あるアメリカの映画で主役の女優さんがスキンヘッドにしていたので、女優気分! ウィッグもお洒落な髪型にしたくて、ネットでファッションウィッグを購入しました。人生初ロングヘアに挑戦したのです。カールの入ったふんわりロングを楽しみました。帽子も好きだったので、キャスケットやベレー帽をかぶって気分転換しました。少しでも体が動く時は料理をしたり、DVD鑑賞をしたり、かなり前向きに気持ちを持っていたと思います。そんな私も8回目の抗がん剤を打つ頃には、ほとんど起き上がれず、死ぬことを考え、何も出来ずソファに横たわり、窓から見える抜けるような青空を見つめるだけの日々になりました。体力がなくなると泣くこともできないんだと、すっかり元気をなくしていたのです。 重なる副作用 R-CHOPが終わり、乳がん治療のための抗がん剤が一種類残っていたので、すぐに4回打ちました。R-CHOPからみたら副作用も軽く楽だとほっとしていたら、だんだん背中が痛くなり、一時入院となってしまいました。この痛みは全身を襲い、数年間取れず、一番辛い副作用となってしまいました。痛み止めを服用しながら放射線治療を約一カ月間毎日通い、私のがん治療は一段落しました。検査でがんが見つかってから一年以上が経過していました。 健康な体へ 幸い乳がんの転移は見られず、悪性リンパ腫の腫瘍もほとんど消えていました。その後はホルモン剤を飲むだけとなりました。ホルモン剤は食欲がなくなるという副作用がありましたが、これは食生活を見直すきっかけとなり、高たんぱく質、栄養価の高い、体に優しく胃に負担のかかりにくい食品を摂るよう心がけました。病気になったことは心身ともに大変な負担がかかりましたが、自分の生活スタイルを見直すきっかけになったと思います。 子供へ がんが見つかって治療以外で大変だったのは、子育てです。私がお世話になった病院には「チャイルドサポート」というシステムがあり、子供に合わせて親の症状を子供自身に説明し、心のフォローをしていただきました。 治療前は病院の手続き、入院準備や検査、保険会社への書類作成等、目の回るスケジュールだったので、子供と向き合うというのは大変なことでした。何と言って伝えようか、ショックを受けないかと心配でたまりませんでした。しかし、伝えるということは一番大切なことだと思います。第三者から伝えてもらうということは、自分自身が感情的なになった状態で子供と話すより、プロが言葉を選んで話していただく方がお互いの為にとてもよかったと感じています。検査入院の時すぐに担当の方が来て下さり、本当に心強かったです。 […]

[Survivor Story] Yukiko Ohta

(Japanese Text Only) キャンサーギフトという言葉はがんになったからこそ得られたものという意味で使う言葉です。告知から2年経ち、気が付いたら、今がんになったからできるようになったこと、出会えた人、新しい視点がどんどん増えていたことに気がつきました。 私のがんが発見されたのは2年前の3月の終わりのことです。それまで育児で仕事を離れていましたが、再び仕事を始めたのをきっかけに検診を受けた時でした。最近少し貧血のような倦怠感があって、この際一度色々と調べてみようと思い、エコー・マンモグラフィーの検査をしました。その3日後、携帯に電話がかかってきました。 「胸にあきらかなしこりが見られるので、至急入院ができるような大きな病院へ行ってください」 次の日、紹介状を持って病院へ行くと、先生がエコーの画像を見ただけで「悪性ですね」と判断されました。腫瘍がかなり大きいとのこと、至急その日から受けられる検査を全て入れてくださいました。 私はそれまで風邪もほとんどひかず、自分自身の健康体を自負していたので、本当に「まさか私には」という心境。頭の中が真っ白になりその日どうやって帰ったかも思い出せないような心境でした。夫と息子がいるのですが、その日2人には何も伝えられませんでした。 ” 私はそれまで風邪もほとんどひかず、自分自身の健康体を自負していたので、本当に「まさか私には」という心境 “ ちょうど小林麻央さんの乳がんがテレビで報道されているタイミングで、辛辣な心境を抱いていたさ中、まさか自分が同じ病気に・・・。子供がまだ小さいのにどうしよう。当たり前のようにこの先もずっと続くと思っていたものが急に見えなくなったような気がしました。 状況を夫に話せたのはそれから2日後でした。明日から4月、新しい職場へ出勤するために準備していた夫にこのような話をすることも心苦しかったのですが、 「どうやら がんみたいなんだよね・・・。それも結構進行しているようで」 その時夫は、実父をがんで亡くしている経験もあってか意外にも平然とした口調で「まだそんなに進行しているようには感じない、危惧しても仕方がない」という動じない姿勢だったような気がします。治療中もその姿勢は変わらず、いつもとさほど変わらない生活を過ごせていたことで私自身も平常心を保てたように思います。 その後、義理の母に相談した際には「義理母ぐらいの年代になると、がんに限らずみんなそれぞれ何かしら持病のようなものをもっていたりする、今は医療も進んでいるし、そんなに心配しなくてよい」と応援してくれました。ただ息子に対してはどうしてもまだ「がん」ということを伝えることができず、その後も長い期間を過ごしてしまいました。 “治療中もその姿勢は変わらず、いつもとさほど変わらない生活を過ごせていたことで私自身も平常心を保てたように思います” その間に針生検の正式な結果をいただき、結果は「浸潤性乳管癌 ホルモン陽性 Her2陽性 ステージ3」というものでした。病院から以下のような標準治療を提示され、 まだ根治を目指せるという希望を与えられました。 ・化学療法 AC×4回 ・合間にジーラスタ投与 ・化学療法 パクリタキセル x 12回 ・分子標的治療薬 ハーセプチン術前x 12回 ・全摘手術 入院11日間 ・放射線治療×30日 ・分子標的治療薬 ハーセプチン術後x 18回 ・ホルモン治療5年 (処方薬名 ノルバティクス)』 その後、がん治療を専門とする病院へ転院し、化学療法から治療がスタートしました。化学療法にあたっては、脱毛をはじめ様々な副作用についても、最初は不安ばかりがつのっていました。 友人の中にもまだがんになった人を知りませんでしたし、両親もがんとは無縁。自分がこの先どのようになるのか具体的に想像できるのは、ドラマや映画などに出てくる入院による抗がん剤のイメージや死のイメージでした。すぐそばに同じような経験をしている方がいて、その人が治療をしながらも自分らしく生活ができている様子を知っていたら、ここまでの不安はなかったのかもしれないと今では思いますが、この時は急に自分だけが別世界に入り込んでしまったようなそんな孤独感がありました。がんになって良いことなんか何もない、そんな心境でした。 そんな中ついに、治療がスタートしました。 ACといわれる化学療法を3週間おきに4回投与する治療は、倦怠感と吐き気、肌の黒ずみ、脱毛があり、体調的にも精神的にも一番大変な治療でした。さらに免疫が下がり過ぎるのを防ぐため、翌日にジーラスタという注射を打ちに行く通院が一番体力的にも辛かったです。感染症を気にして、外出もなるべく控えたりしていました。 最初はそのようにびくびくしながら生活していましたが、続くパクリタキセルとハーセプチンという化学療法は、手足のしびれはあるものの、さほど倦怠感もなく、慣れとともにだんだんと日常の生活ができるようになっていきました。付き添いがなくても通院の電車で気分が悪くなることもありませんでしたし、その後、化学療法をしている方には仕事と両立している方もいることを知り、最初に抱いていたイメージとは異なり、化学療法といっても日常生活を普通に送れるものだという自信が湧きました。 半年に及ぶ術前化学療法が終了し、検査をおこなったところ、腫瘍は0.03mmにまで縮小しほぼ消滅といわれました。 自分の身体の中のがんが縮小していく体験をしたことで、現在の医療や周囲の方への感謝の気持ちを持つことができました。私自身は何をしたわけではなく、多くの方が関わってくださり、支えてくださり、医療を提供してくださったことで、再び希望を与えていただいた体験でした。 その後の手術、放射線治療、化学療法を終えるころには、最初に感じていた、がんになってよいことなんか何もないという心境から、多くの感謝の気持ちを抱けるようになっていました。 しかし治療をする中で、ネックとなっていたことは、そのころ低学年だった子供にがんをどう伝えたらよいかということでした。このことに悩んでいたときに CLIMBというプログラムに参加させていただき、この中で同じ境遇の人たちとの多くのつながりができました。 テレビでがんのことが報道されていたタイミングでもあり、私は子供と少し前にがんについて質問をされ、何の気なしに、「がんは怖い病気」というような話をしてしまっていたところでした。まさかそのがんになってしまったということを伝えたら、子供に大きなショックを与えてしまうのではないかと思い、私は治療中ずっと「がん」という言葉を伏せ、「ポリープ」とし、うやむやにして過ごしていました。 いつか必ずわかることだし、隠すのはよくない。ただどう伝えたらショックを与えないか、よくわからなかったというのがあります。 プログラムに参加する中で、子供に隠すことの弊害を知りました。子供にきちんと話し、協力を仰ぐことで、彼らには思っているよりも受け止める力があることを教わり、伝える前に比べ、伝えた後の方がとても楽になりましたし、子供自身も協力的になってくれました。 プログラムには、同年代の同じような悩みを抱えた方が来ていて、親同士も子供たち同士もまた同じ境遇であることからすぐに打ち解け、心境や悩みを共有する場を持つことで気持ちが前向きに変化しました。 一言でがん患者といっても本当に様々で、子育て世代で同じような状況の人に相談したいと思っても、出会える機会を見つけるということは本当に難しいのですが、つながることができたのはとても貴重な時間になりました。この時の出会いから、『MotherForest』という名前の患者会をつくって、新たにがんになった方へ共有の場を提供し続けています。 “彼らには思っているよりも受け止める力があることを教わり、伝える前に比べ、伝えた後の方がとても楽になりました“ キャンサーギフト(がんになったからこそ得られたもの)という言葉を知ったのもこのころですが、確かに、気が付くと、がんになってから出会うことができた人、新しい視点、機会がどんどん増えていました。身体が、がんにむしばまれていったとしても、かわりに増えているものがあるなら、なんとなく安心します。「失うものばかりではなく、悪いことばかりでもない」 このことに気が付けたのは、こうしたつながりの場で周囲の方に身をもって教えていただいたからでした。 このように、私にはがんになってからの出会いから得たキャンサーギフトがいくつかあります。一つ目は、MotherForestをはじめ、同病の方とのつながりでした。告知を受けた時は一人だけで戦っているような気がしましたが、気がついたら多くの方が同じ方向に向かって走っていたということに気づきました。そしてこれからも5年~10年とがんと向き合いながら過ごしていく中での同志を得たと勝手ながら思っています。 二つ目は、ご縁があって、がん患者のつながるアプリtomosnote開発責任者のAFLACの田中麻衣さんに、患者という目線からご協力をさせていただく機会に恵まれたことです。こちらを利用する中でも、つながることによって多くの安心や励まし、心の余裕、時間を得るという体験ができました。 今はネットでどんなことでも調べられる反面、どれが正しい情報なのかわかりづらく、告知後の最初の段階で信頼できる情報へたどり着けることがとても重要だと思います。がんになってしまった方を支えようと、日々試行錯誤してくださっている方々がいることに勇気づけられ、励まされます。 最後に、挙げられるキャンサーギフトは、こどもの成長の場面が見られるようになったことです。がんということを伝えたあとの子供は、以前より協力的な姿勢をみせてくれることが多くなりました。家事の手伝いなども以前にくらべ、少しではありますが、積極的にしてくれるようになっています。テレビでがんに良い食べ物などを聞くと、すかさず教えてくれたりしますし、学校での福祉関係の授業も興味を持って取り組んでいるように感じます。ほんの少しではありますが、がんになったことが新しい変化をもたらすギフトになっていると確かに実感しています。 毎年多くの方が新たにがんになり、毎日どこかでがんの告知を受けている方がいて、その人が私と同じようなショックを受け、絶望や、悲しみや、混乱の中にいるとしたら、今後は私自身が経験した体験から、「決してがんになったからといって悲しいことばかりではない、がんになったからこそ得られることもある」という励ましのメッセージを、ぜひ一人でも多くの方に届けていきたいと思っています! 誰でも起こりうる、がんと向き合う期間を一つのライフステージととらえて、その期間をもっと充実して前向きに過ごせるようなお手伝いができたらと願っています。 “私自信は何をしたわけではなく、多くの方が関わってくださり、支えてくださり、医療を提供してくださったことで、再び希望を与えられた体験でした” <太田由貴子さん […]