[Survivor Story] Kaori Tsukuda

PiNK 2021 Winter Issue TEXT: Kaori Tsukuda PHOTO: Sora Shimizu (Japanese Text Only) 病気はその人のパワーを取り戻すもの 「これは検査です」 「何かあるよ。」 定期健康診断で胸のエコー検査を受けているときに、突然言われました。 「すぐに紹介状書くから、このまま待ってて。検査結果をもって、すぐに病院へ行って。大きい病院だよ、わかった?」 一体、何が起こったの?毎年マンモブラフィーとエコーを受けているのに、突然こんなことがあるのだろうか。検査結果を持たされたのはいいけれど、病院のあてもなく途方にくれました。乳がん経験のある友人に相談し、病院に電話しましたが、予約が取れたのは一ヶ月先。不安な気持ちを抱えたまま、一ヶ月過ごすのか。しかしそこから、小さいラッキーの連鎖が始まったのです。 会社の総務の人にそれとなく相談したら、予約を入れた病院の提携クリニックがあると教えてくれ、電話ですぐに予約が取れました。病院のことを相談できる友人や職場の方がいたのは、本当にラッキーだったと思います。 精密検査を受け、マンモグラフィーと触診が終わった後に担当医に言われました。 「残念ですが、このままお帰りいただくことはできません。針生検をします。」 悪性の疑いがある場合、確定診断するためにマンモトーム針生検という検査があり、太い注射針で組織を採取して調べます。着替えるためにロッカールームへ入った途端、目の前が涙で見えなくなりました。手が震えて検査着の紐が結べなかった。 「結果は一週間後に本院でお伝えしますが、ほぼ悪性だと思いますので、どうするかご家族と相談してきてください。」 こう言われて病院を後にしましたが、相談できる家族もいません。 「どうしたらいいんだ ろう。死ぬのだろうか。でも、もしかしたら良性かもしれない」頭の中がぐちゃぐちゃで した。ただただ涙が溢れて、前が見えなかったのを覚えています。 眠れない一週間を過ごしましたが、幸いにも経験者の友人が数人いて、これもまたラッキーでした。検査結果は、もちろん悪性。その日にすべての精密検査の予定が組まれ、手術日も決まりました。サブタイプはトリプルネガティブで、抗がん剤治療をすると伝えられました。腫瘍が4.5cm 以上あったので、ステージは2A。画像上ではリンパ節への転移も疑われました。 フラフラになりながら会社に戻り、すぐに上司に報告することにしました。 「あぁ、クビかなぁ・・・」怖かったけれど、腹をくくりました。クビになったら、その時にまた考えよう。 「病気でもいいから、いて。」 上司はそう言ってくれました。今でもこのことを思い出すと涙が出ます。 「あなたがいつ辛くてしんどいか分からないから、伝えてほしい。」 この言葉は、気持ちをとても楽にしてくれました。辛いときは辛いと言って良いんだ。治療しながら働けるように会社の制度も変えてくれて、フレックスと在宅勤務が可能になりました。 化学療法の日は、朝8:00 前に出社し、仕事を一時間してから病院で抗ガン剤投与を受け、午後は会社へ戻る生活が始まりました。ウィークリーパクリタキセルという毎週投与を受ける抗がん剤だったので忙しいスケジュールでしたが、会社と病院は歩いて15分。これもまた小さなラッキーでした。髪は抜けましたがそれ以外の副作用はほとんどなく、働きながら治療を続けられたことも本当にありがたかったです。 毎日新しい、わたしだね 治療当時はファッションの会社にいたので、どんな服装でもオーケー。ウィッグにはまり10数個は持っていました。毎日髪型が違っても、誰も気にしません。 「ウィッグかわいい!毎日、新しいわたしだね。」 会社ビルでよく行くコンビニの店⻑さんが声をかけてくれたときは、嬉しかった。 ウィッグ、メイク、ファッション。病気だからこそ、おしゃれをする。これが私の支えになりました。メイクアップセラピストとしての活動にも幅が出ました。どうすれば顔色が良く見えてオシャレに見えるか、全て自分の肌で試していました。 仕事をしながら治療するときは、まわりに余計な気を遣わせないことも一つの礼儀だと思うし、自分への礼儀と励ましだと思います。女性は花なのだから。 追い詰められた私が思ったことは 半年間の術前抗がん剤のおかげで、最大7cmあった腫瘍は約半分の大きさになりました。私は「小さくなったから部分切除かな、それとも全摘したほうがいいかな」と、自分がどうしたいかを考えていました。 そんな中、手術の一週間前に主治医から思いがけない言葉をいただきました。 「全摘します。再建はしないよ」 頭が真っ白になりました。再建の場合、乳腺を全摘後にエキスパンダーという拡張器を挿入しますが、それはしないと言われました。追い詰められた私は、手術を受けないことも 考えましたが、私を良く知る友人たちは「あんたらしいね。でも生きてほしい」と願ってくれました。 私はどうしたいんだろう?何度も自分に問いかけました。生きていくからこそ、胸を失いたくない。再建したい。後日、主治医に時間をいただいて思っていることをぶつけました。 「どんなに私が努力しても、もうどうにもならない。」 そう言って、主治医の前で初めて泣きました。 「分かった、再建しよう。ちゃんとするから、まずは治そう。」 なぜ部分切除ではだめなのか、乳頭乳輪は残せないのかを説明してもらった結果、私でも同じ判断をしただろうと納得しました。思っていたより病状は深刻で、主治医が熟考して出した結論だということも理解できました。正直に思いをぶつけた結果、主治医は受け止めてくれてギリギリまで譲ってくれた。自分の思っていることを伝えるのは大切だと実感しました。この決断は、のちに最善の選択となったのです。 […]
[Survivor Story] Eri Yoshida

PiNK 2020 Summer Issue TEXT: Eri Yoshida PHOTO: Dai Tsukamoto (Japanese Text Only) 偶然をチャンスに変える生き方が好き 小さな異変 あれ、左胸に小さなしこりがある。44歳の時、お風呂に入っていてプクッとした5~6ミリのふくらみを見つけました。触っても痛くないし、小さいし。そのうち無くなるかな?と様子を見てみましたが、そのふくらみは消えませんでした。そういえば、子供を出産して10年近く検診に行っていないなと思い、念のため病院で診てもらうことにしました。 その病院には乳腺外科専門医がいらっしゃいました。何の知識もなく病院を訪ねたので、専門のお医者さんがいるんだ、良かった!と思いました。マンモグラフィック、エコー、レントゲンを撮り、その日のうちに結果を聞くことになりました。医師からは、悪性のしこりではなく、脂肪が固まったもので、将来、悪性になることはないと告げられました。私は「良かった、大したことなくて」と胸を撫で下ろしたのでした。 それからあっという間に一年半が過ぎ、子供も小学5年生となり、手が離れて時間がとれるようになったので、ヴァイオリンの講師と演奏活動に力を入れ出し、多忙な日々を送っていました。しかし、夏休みに家族で旅行へ行った時、なんだかとても体がだるく、夜も眠れないくらいの疲労感に襲われました。家に帰ってきて体調は戻りましたが、何か自分の体に異変が起こっているように感じたのです。 左胸のしこりが大きくなり、左脇にも膨らみがあることにも気が付きました。 その時「乳がん」という言葉が頭をよぎったものの、悪性にはならないという診断を信じ込んでいたので、「いや、大丈夫。でも脇のしこりは何?」と心に影を落としたまま秋を迎えたのでした。 9月の46歳の誕生日のとき、このまま不安を抱えていてはいけない、きちんと診てもらおうと心に決め、乳腺外科専門の診療所に予約を取りました。10月1日、子供の手を引き、楽観的な気持ちと大きな不安を両方を抱えてえ診療所に向かいました。左胸のしこりは大きくなり痛みもあったので、マンモグラフィを撮るのがとても辛かったのですが、良性の腫瘍と思い、心配はしていませんでした。いや、そう思いたかったのかもしれません。名前を呼ばれ診察を受け、私の目を見て先生は仰いました。 「まだ細胞診をしていないから、こんなことを言うのはまだ早いのだけれど、大きな病院でショックを受ける前に言っておくね。僕は多くの乳がん患者さんを診てきた。あなたの左胸のしこりは悪性腫瘍、つまり乳がんの可能性が高い。脇のリンパにも転移していると思う」 青天の霹靂とはこのことね、と頭に浮かんだまま、思考が停止しました。何で?悪性にならないって言ったよね。小さいしこりが小さいのうちに病院で検査したのになぜ?悲しいというより悔しい気持ちが心を襲いました。 「何で?悔しい」と涙をこぼしながら言うと、 「気持ちは分かる。でも今一番にやらないといけないの事は詳しい検査だ。体の他の部位に転移していないか一日も早く調べる事だよ」そして「大丈夫、必ず平和な生活に戻れる。仕事も出来る。諦めちゃだめだ」 先生の畳みかけるような言葉を聞き、これは本当に大変なんだ、命がけなんだ、と感じたのです。 検査 設備の整った病院を紹介していただ頂き、3日後には本格的な検査を始めていました。細胞診、CT、MRI、血液検査を受け、乳がんの説明も丁寧にしていただきました。 乳がんには色々な種類があること。行の度合いや種類によって治療が違うこと。抗がん剤治療を先に行うと腫瘍が小さくなる可能性があることなど。一番私を前向きにさせてくれたのは、抗がん剤の治療をしながら仕事が続けられることでした。「是非、働いて」と先生は言ってくださいました。仕事は続けられる、少し辛いけれど頑張ろうと希望を持ったのです。 新たな壁 細胞診とCTの結果を聞くため、外来を訪れました。その時の不安な気持ちは今でも忘れられません。他の部位に転移していたらどうしよう。助かるだろうか?恐ろしくてその場を逃げ出したくなりました。診察室に入った時、先生の顔が強張っているのが分かりました。私は恐るおそる椅子に座り、先生は口を開きました。 「これを見て下さい」 CTの画像が写り、お腹の中だとわかりました。体の真ん中に大きなものが見えます。胃だろうか、と思っていると、 「この白い物、体の中にあってはいけないものなの。本来、お腹の中にないものが写っているの」 えっ!こんなに大きくハッキリ写っているもの、内臓ではないの? 「腫瘍だと考えられます。多分血液のがん、悪性リンパ腫ではないかと」 血液のがん?乳がんを検査していて他の種類のがんが見つかったのです。私の心は凍り付きました。 「あとどれくらいで死にますか?」その言葉しか出てきませんでした。 「それはまだ早い。調べましょう。明後日から検査入院して」と先生に伝えられましたが、人間は大きなショックがあると、それを受け止めるのに時間がかかるのですね。「仕事があるのですが」と答えていました。「仕事と命、どっちが大事?」と言われても、悪いことが次から次へと起こり、気持ちがついていかない。 気が付くと、廊下で友人に電話をかけていました。仕事を代わってもらえるように頼み、病院での経過を話し終えると、涙が止まらなくなりました。私、だめかもしれない。電話の向こうで「大丈夫だから、きっと大丈夫」という声が遠くから聞こえたのでした。 涙を拭いて 検査結果は、乳がんがリンパ節まで転移し、ステージⅢB。悪性リンパ腫はお腹の腫瘍を取り、もう一度細胞診をしなくてはならず、左胸全摘とお腹を切る手術を同時に受ける事になりました。 手術は5時間あまり。術後に目を覚ますと、医師から「大丈夫。ヴァイオリンは弾けるから」と言われ、ほっとしました。良かった。しかし、全摘した左胸を見ることがはなかなかできませんでした。体を拭く時、自分の体がどうなったのか改めて確認しました。そして、失った左胸のことは、今は考えないようにしよう。これからの治療を乗り越えることだけを考えよう。後ろは振り返らず、前だけを見て進もうと心に決めたのです。 抗がん剤治療 悪性リンパ腫はステージⅣA。骨髄に転移していました。しかし運の良いことに、悪性リンパ腫で使用する抗がん剤と乳がんで使用するものとがほとんど同じ薬だったのです。R-CHOPという治療でした。この抗がん剤治療で両方のがん癌を治せる。しかし、一種類の錠剤を含める4種類の抗がん剤と吐き気止めの点滴を一日で打つのに6〜7時間かかります。朝一番に病院へ行き、病院の電気が暗くなったあと、一番最後に帰るというスケジュールを21日に一度、合計で8回行いました。 副作用は様々な症状がありました。脱毛、吐き気、下痢、便秘、味覚障害、むくみ。体が鉛のように重だるくなり、思うように動けない。水を飲むと変な味がして飲めなくなり、一回抗がん剤を打つごとに体力と、気力が奪われていきました。 髪は抜けることがわかっていたので、治療に入る前にベリーショートにカットしました。大変だったのは抜けた髪の処理。枕や衣服に着いた髪紙をコロコロころころで取るのも体がだるくて時間がかかりました。でも、頭がスキンヘッドになると「この頭もカッコいいかも!」と結構気に入っていました。あるアメリカの映画で主役の女優さんがスキンヘッドにしていたので、女優気分! ウィッグもお洒落な髪型にしたくて、ネットでファッションウィッグを購入しました。人生初ロングヘアに挑戦したのです。カールの入ったふんわりロングを楽しみました。帽子も好きだったので、キャスケットやベレー帽をかぶって気分転換しました。少しでも体が動く時は料理をしたり、DVD鑑賞をしたり、かなり前向きに気持ちを持っていたと思います。そんな私も8回目の抗がん剤を打つ頃には、ほとんど起き上がれず、死ぬことを考え、何も出来ずソファに横たわり、窓から見える抜けるような青空を見つめるだけの日々になりました。体力がなくなると泣くこともできないんだと、すっかり元気をなくしていたのです。 重なる副作用 R-CHOPが終わり、乳がん治療のための抗がん剤が一種類残っていたので、すぐに4回打ちました。R-CHOPからみたら副作用も軽く楽だとほっとしていたら、だんだん背中が痛くなり、一時入院となってしまいました。この痛みは全身を襲い、数年間取れず、一番辛い副作用となってしまいました。痛み止めを服用しながら放射線治療を約一カ月間毎日通い、私のがん治療は一段落しました。検査でがんが見つかってから一年以上が経過していました。 健康な体へ 幸い乳がんの転移は見られず、悪性リンパ腫の腫瘍もほとんど消えていました。その後はホルモン剤を飲むだけとなりました。ホルモン剤は食欲がなくなるという副作用がありましたが、これは食生活を見直すきっかけとなり、高たんぱく質、栄養価の高い、体に優しく胃に負担のかかりにくい食品を摂るよう心がけました。病気になったことは心身ともに大変な負担がかかりましたが、自分の生活スタイルを見直すきっかけになったと思います。 子供へ がんが見つかって治療以外で大変だったのは、子育てです。私がお世話になった病院には「チャイルドサポート」というシステムがあり、子供に合わせて親の症状を子供自身に説明し、心のフォローをしていただきました。 治療前は病院の手続き、入院準備や検査、保険会社への書類作成等、目の回るスケジュールだったので、子供と向き合うというのは大変なことでした。何と言って伝えようか、ショックを受けないかと心配でたまりませんでした。しかし、伝えるということは一番大切なことだと思います。第三者から伝えてもらうということは、自分自身が感情的なになった状態で子供と話すより、プロが言葉を選んで話していただく方がお互いの為にとてもよかったと感じています。検査入院の時すぐに担当の方が来て下さり、本当に心強かったです。 […]
[Survivor Story] Chieko Kato

PiNK Fall 2019 TEXT: Chieko Kato (Japanese Text Only) これが私の生きる道 〜がんになったからできること〜 私が乳がんの告知を受けたのは、41歳の秋でしたが、しこりに気がついたのは、その1年以上も前のことでした。左に硬いしこりがあり、生理になるとかなり痛みがありました。痛いのは乳がんではない。そう思い込んでいた私は不安に思いながらも、病院に行くことはありませんでした。 当時の私は仕事が忙しく、中学生の子供の受験、家事と目まぐるしい日々。自分のことを考える時間や、病院にいく余裕などはなかったのです。会社の健康診断で、マンモグラフィー検査を選択しました。初めてのマンモグラフィーで、痛みの原因がわかればいいなという軽い気持ちで受けました。 検査からほどなく、「すぐ精密検査を受けてほしい」と電話連絡がきありました。新規プロジェクトの第1回目の会議の途中でした。「すみません、私明日から出張で2週間後にいきます」と伝えたところ、「そんな時間はありません」と言われました。 上司に報告してたところ、すぐにでも検査に行くように言っていただ頂き、その日のうちに資料を取りに行きました。画像を見ると、たところキラキラと光るようなものが写っていました。「きっと石灰化に違いない。何かの間違いに決まっている」と言い聞かせ、翌日は地元の乳腺外科へ行きました。 診察室に座る間もなく、医者はマンモグラフィーの画像を見ただけで「がんがあるね。」とあっさり。「一応細胞検査をしますが、99.9%がんですね。仕事しているなら休む段取りを考えておいてね。1cmセンチくらいのがんがんだけど、あなたは胸が小さいから温存できないよ。全摘します」頭の中は真っ白になってしまい、「え?乳がん?私が?胸を取ってしまうの?」と思いつつも、「今から出張に行かなくちゃ。プロジェクトを外されたらどうしよう」と現実的なことも考えていました。 とにかく両親に謝りたいと思った私は、その足で実家に出向き、「乳がんになってしまってごめんなさい。」と泣きながら説明をしました。自宅に戻ったところ、子供たちが心配そうに待っていてくれたので「乳がんになったけれど、お母さんは大丈夫だから安心して欲しい」と話し、「これから仕事だから」とスーツに着替え、出張先に出向きました。それからは仕事の合間に、乳がんについて調べる日々。「とにかく胸を失いたくない!」その一念で必死に病院を探しました。 内視鏡が良いいいのではないか?、何とか温存ができないのか? 病院もをいくつかまわりましたが、行きました。どこの医師にも「胸より命」だと言われてしまいます。1cmしかないのだから全摘してしまえば生きられるよ。なぜ迷うのか。なぜ手術しないのか。 私はこんなにも胸を失いたくないのに、誰もわかってくれない。毎日絶望した気持ちで過ごしていました。 当時は、乳房再建が保険適用される前で、私がの住む愛知県では、再建不毛地帯と言われるほど再建手術ができる病院がありませんでした。あっても手術費用が高額で、250万円のところもありました。私は家を新築したばかりで、子供は受験生。これから高校、大学と費用がかかるのがわかっている。そして何より、いつまで生きられるかわからない私が「胸」に拘って大金を使うわけにはいかないのではないか。時間がどんどん過ぎていくことに不安もあったので、「胸は諦めよう」とそう決めて毎日泣いて過ごしていました。 治療の不安も重く圧し掛かってきます。「抗がん剤治療は辛いのか?」「仕事は続けられるのか」「胸を失ってどんな気持ちで生きていったらいいのか」ネットをで見てもブログを読んでも気持ちの整理がつけられず、乳がんを体験した人と話がしたいと思いました。聞きたいことや話したいことがたくさんありました。 そこでインターネットで患者会を探して、いくつか数カ所に連絡をとったところ、「病院の患者しか参加できない」「不定期で、いつやるかわからない」「相談には乗れない」などと、いくつか断られてしまいました。私はまた絶望した気持ちになりました。どこにも誰も私の味方がいないと、そんな風に思いました。一生がんの再発を恐れて生きるより、このまま乳がんを放置して死んでいきたいと思ったほどです。もちろん子供を置いて死ねるわけなどないのですが。 実は私は子供のころからいくつかの大病をしていますが、「死」と向き合ったことはありませんでした。大きな手術やケガを経験しましたが、自分が死ぬなんて考えたことはありませんでした。しかし、がんを患ってから「がん=死」という考えが頭をよぎることもありました。乳がんはいくら生存率が高いとはいえ、自分に当てはまらないかもしれない。いつしか、「残りの人生は人のために生きたい」と考えるようになりました。 病院を探す間も仕事は続けていました。ふと気を緩めると泣いてしまいそうでしたが、仕事に打ち込んでいるときは乳がんを忘れることができ、仕事に救われたと思っています。 また人にも救われました。ある友人は再建手術ができる病院を探してくれ、ある友人には「貯金は全部あげるから受けたい手術を受けてほしい」と言ってもらいえ、毎日のようにお守りや健康に良いと言われているものが届きました。 私の想いや、友人の想いが私を導いてくれたのか、皮下乳腺全摘同時再建ができるクリニックを受診することができました。医師は私に、「乳がんは生きられる病気。長く生きていくことができるから乳房は失わない方がいい」と言ってくださいました。我が意を得たと即座に手術を決めました。 家族や友人は、私をひやひやした気持ちで私を見守ってくれていたことでしょう。手術日が決まったときはら、皆が、涙を流して喜んでくれました。自分ひとりだけで生きているのではないと強く実感しました。 病理の結果は当初言われていた「1cmの初期がん」ではなく、2.5cmが2か所の多発性のがんだと分かりました。私はホルモン治療を選択し、リュープリンとフェアストーンを飲みました。 たかがホルモン治療と思っていましたが、副作用がひどく、自分がどこにいるかわからなくなる症状が出る見当識障害や、全身の関節の痛み、不眠、頭痛に悩まされるようになりました。特に関節の痛みが強く、携帯電話が持てずに落としたり、階段から落ちてケガをしたりすることもしょっちゅうでした。 仕事の効率が落ちていることを気付かれたくなくて必死でした。一日が終わり、家に着くと、玄関先で痛みのあまり泣いてしまいます。そんな私を見て、子供たちは「仕事を辞めたら?」とを言ってくれたこともありました。 しかし、苦しみや痛みはすぐに改善するものではありません。会社を一日でも休むと、明日から次の日はもう行けなくなるのではないかという恐怖があり、絶対に休まず行こうと心に決めていました。 会社を辞めてしまったら、社会復帰ができなくなるいのではないかという不安もありました。 その頃の、自分の体験から、患者同士が集まる場所を持ちたいと考えており、主治医に話をしたところ、クリニックの一室を貸していただけることになりました。これをきっかけに、そして、どこの病院の方が来てもよい定期的に開催される患者会を設立しました。闘病ブログを書いていましたので、 患者会を設立した際には、私の顔を見に来たと全国から大勢の方が参加してくださいました。 患者会、会社、家庭という3本柱で、毎日がさらにハードになっていきましたが、患者会に大勢の方が参加してくださり、「こういう会を待っていた」「患者会に救われた」と言っていただ頂くことが私のエネルギーとなり、よりパワーアップをしていきました。 患者会は定期的に開催をされています。(設立当時は月3回、現在は月6回)乳がんになったばかりの方も多く参加されます。どうしたらよいていいか分からず泣くばかりの方が体験者の話を聞き、気持ちを整理して前を向いていくようになります。また体験者は、自身の体験が次の誰かを救うことに気づき、経験したことが無駄じゃなかったと乳がんを受け入れていくようになります。 患者会の名前は「テッテルーチェ」と名付けました。テッテはイタリア語でおっぱい、ルーチェは光です。暗闇でどうしたらよいのか分からない患者さんたちの希望の光になりたい、という想いが込められています。 患者会には年間で延べ1,000名くらいの方が参加されるようになりました。そんな中、乳がん患者の中に未婚の方が大勢いることに気づきました。「いつか良いいい人と結婚するだろうと思っているうちに年齢を重ねてしまった」「子供も欲しいと思っていた」「結婚しておけばよかった」「結婚したかったと」と、深い悲しみの中におられるいる方が多くいます。母親同伴で来られる方も多く、お母さまが「結婚をさせておけばよかった」と泣かれます。なんて悲しいのだろう。「結婚したいという」その願いを叶えることができたらいいのに。 患者会は良くもよくも悪くも大盛況で、メールや電話での相談も毎日のようにありました。患者会がない日でも、必要であれば夜でも会いに行きました。乳房再建を知って欲しいと企画した講演会は、患者会に救われたと言ってくださった患者さんたちと一緒に開催しました。講演会などやったこともない素人の私たち。PCの使用もままならない方は教室に通ってまで尽力してくれました。それもこれもすべては患者さんたちを救いたい一念によるものです。 私は副作用と闘いながらですが、会社と家庭、患者会を運営し充実感を味わっていました。そんなとき会社から、もっとやって欲しい仕事があるから試験を受けないかと言っていただきました。願ってもいないチャンス!認めていただけたことが嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいでした。 仕事は私にとって、なくてはならないものです。生活のためでもあり、生きがいでもあります。 もっと頑張りたい、チャレンジしたい。しかし、これ以上仕事が増えることに体力の限界を感じました。副作用も日々辛さを増しています。 患者会をやめることも考えました。しかし、がんを告知されたときの苦しみや、「患者会に救われた」と言ってくれたいう皆の笑顔が浮かんできます。亡くなってしまったがんの仲間も思い出し「もし患者会をやめたら私は一生後悔するだろう」と考えました。そこで、せっかく頂いたチャンスを蹴って会社に残るのも違うのではないかと考え、退職を決意しました。 またこの時期、副作用の痛みと不眠が限界を達し、2年で投薬を中止しました。本来であれば5年~10年の治療期間でしたので、心残りはありましたが、これ以上の痛みに耐えながら8年間を過ごすのは無理だと判断しました。 私は、起業をして結婚相談所をつくりました。がん体験者が仲人するがん体験者のための結婚相談所です。がんを体験した苦しみに寄り添い、一緒に前を向いて婚活に取り組むみサロンです。がん体験者と健常者の方との結婚。難しいように思われるでしょうか?全然そんなことはありませんでした。 むしろがんを体験したことで、人に対する感謝の気持ちや、生きていることへの感謝の気持ちを持った方々は人間的に成長していることが多く、どの方にも望まれてご結婚していきます。結婚された方々は「がんにならなかったら結婚できなかった。がんになってよかった」とおっしゃるほどお幸せになられています。 乳がんになったばかりのころは、恐怖と不安で泣いてばかりいました。人生を悲観して、いつまで生きられるのかと、そんなことばかり考えていましたが、今では、いつその時が訪れても後悔しないように、力の限りやりたいことをやって生きたいと思うようなりました。乳がんは悲しくて不幸な出来事だと思います。乳がんになって良かったとは一度も思ったことはありません。でも、「なっても良かった」と思えるようになりました。 これからも患者会と結婚相談所を通して、皆さんの希望の光になりたいと願っています。 加藤 千恵子 Chieko Kato 乳がん体験者の会 NPOテッテルーチェ理事長 […]
[Survivor Story] Miki Yakata

PiNK Winter 2020 TEXT: Miki Yakata (Japanese Text Only) これが私の生き方「自分らしさ」を忘れない 私は、大丈夫! 私は、病気にはならない。このまま変わらない生活が続いていくんだと思っていました。そんな矢先、2018年の冬、25歳の時に乳がんに罹患しました。症状はしこりがあるだけなのに、痛くも痒くもないし、何より体調も良いのに、診断結果はがんだった。診断された時は、カラダとココロのすれ違いにすごく複雑な気持ちを覚えました。 病気に気づいたきっかけは、何気なくやってみた「セルフチェック」。2017年、フリーアナウンサーの小林麻央さんが乳がんで亡くなったというニュースをテレビで知りました。乳がんは、自分には関係ない。あと20年後ぐらいから意識して対策をしていけばいいことだと、他人事のように感じていましたが、麻央さんの訃報を知った時、自分の中にあった「私は大丈夫!」という思いが「私は大丈夫かな?」という疑問に変わりました。疑問に思ったものの、今すぐ病院に行くのか?いや、それは違うと思い、まずはセルフチェックをしてみることにしました。 お風呂に入ったときに、胸に異常が無いか手で触って調べました。初めのうちは、「何をやってるんだろう、自分」「何も無いに決まってるのに」という思いがありましたが、左胸を調べていると固いしこりが胸の左上にある事に気づきました。触ってすぐにしこりだとわかる大きさで、すごく固い。どれくらい固かったんですか?とよく聞かれますが、例えでいうと「ビー玉」の固さでした。それでも、痛みが無いことに少しホッとして、しばらく様子を見ることに。1週間後、再び気になって触ってみるとやはり変わらず、しこりがある。嫌だけど一度検査をしてもらおうと思い、病院に問い合わせましたが、タイミングが悪く予約が取れませんでした。そこで、「しこりはあるけど痛くないし、まあ大丈夫か。時間がある時に行こう」と言い訳をつくり、行かないことにしました。 行動することの大切さ 2017の年末、仲の良い友人の集まりに参加したときにしこりのことを話すと、友人から「明日にでもちゃんと病院に行ってみてもらったら?」と言われ、「そんな、大げさだよ」とも思いましたが、何故かその時は素直に行こうと思い、翌日病院へ行きました。その結果、検査でステージ1の乳がんだということが分かったのです。その時、「大丈夫なんてない」ということと、「できる事から行動することの大切さ」を実感しました。 手術 乳がんだと分かってから、「仕事は?手術は?治療は?」と、考えることが増えました。まずは、再度検査です。マンモグラフィー、エコー、MRI検査、そして脇のリンパ節への転移を調べるセンチネルリンパ生検。病気だと分かっていても、さらに細かく検査をすることが、当時は嫌で嫌で仕方ありませんでした。「でも、やらなければ。わからないこともあるから受け入れなきゃ」と自分に言い聞かせていました。検査の結果、リンパ節への転移が見つかったことでステージ2bとなり、手術の選択をする時が来ました。見つかった当初は、全摘はしなくてもよいと思っていましたが、実際に転移していたことやAYA世代の若年性の乳がんであることから、全摘という言葉が現実味を帯びてきました。 乳腺外科の担当医から手術のパンフレットをもらい、帰宅して読みました。とても分かりやすくまとめられていて、不安と理解を繰り返しながら読んでいましたが、手術方法や再建の選択について読んだ時に初めて「やっぱり胸を切るなんて恐ろしいことは、嫌だ!私は絶対したくない!」と泣いてしまいました。しかし、病気を家族や友達に打ち明けて様々な意見をもらったことも思い出し、「このままじゃダメだ、決めなきゃ!」と決意を固め、全摘手術を選択しました。 嫌だと思うとすぐに落ち込む事ばかりを想像してしまうのですが、母に「もし手術したら再建もするし、あんた胸小さいから大きく作ってもらえばいいんやないの?」と言われたこともありました。「娘に向かってなんてこというんだ?」と思う方もいるかもしれませんが、「手術はすることになるし、もし再建するなら今より大きな胸も確かに良いかも!」とポジティブに考えられる自分がいました。結果的に、遺伝子検査や再建、その後の治療など、様々な選択を限られた時間で決断しなくてはいけないと知ったことで、再建はゆっくり時間をかけて考えれば良いと思うようになり、手術は全摘のみを選択しました。そこからは、片方の胸がないイメージトレーニングを行う日々が続きました。 治療開始 手術後、3週間ほど経って病理検査の結果が分かりました。結果は、ステージ3a。想像していた結果ではなく、ただただ驚きました。今まで主治医の先生と話して泣くことはなかったのですが、正直、その時は涙がこぼれそうになったのを覚えています。ご飯も食べれるし、仕事もできるし、好きな音楽も聴けるし、アニメだって観れて何も変わらない生活なのに、なんで。 「今の自分を受け入れるしかない」と思い、今後の治療について説明を受けると、抗がん剤から始まり、放射線治療、ホルモン療法というフルコース。「こんなに治療をして逆に私の身体は大丈夫なのかな?」と不安しかありませんでしたが、きっといつか治療が生かされる日が来ると考え、治療を受けました。 抗がん剤 抗がん剤治療がスタートしてからは、脱毛の悩みが最初の壁だと思っていましたが、そこは違いました。脱毛以外に、副作用で乗り越えなければいけないことがたくさんありました。実際のところ、髪が無くなる覚悟はしていて、前もって対策やウィッグなどについてインターネットで調べて準備をしていたので、治療開始から10日ほどで抜けた時も乗り切ることができました。ただ、髪が抜けた頭をどうケアすべきか、抜けてからしか分からないものです。頭皮への刺激が寝られないくらい痛かったり、お風呂を上がってから頭をしっかり拭いたのにも関わらず、気づいたら汗が滝のように背中に垂れていたり。時期も夏だったこともあり頭皮の匂いが信じられないくらいのもので、どうすれば良いのか全く分からなくて、ただ嘆いていました。 治療の後は、ぐったりして起きれない事や、むくみが全身に出てしまう事、爪や皮膚の変化、食べ物の味覚や匂いが変化してしまった事、生理が一時的に来なくなってしまった事、消化器官も薬の影響で何日も便が出なくて苦しい日々が続くなど、次から次に起こる変化に動揺することもありました。 アピアランスサポート 治療の間、悩みが絶えない中で私にとっての心の支えになったのは、アピアランスサポートの存在です。 病気を公表した際に、NHK名古屋からのお声がけで「#乳がんダイアリー矢方美紀」という番組がスタートしました。リアルに自分が悩んでいる事や思っていることを映像として日記形式でHPに更新していく。自分もわからないことだらけで不安だけど、番組を通して1人でも多くの方に乳がんという病気について知っていただきたい。病気に罹患しても、夢や諦めたくないことを日々続けているこんな人もいる、ということを番組を通して多くの方に知っていただけるのかなという希望もありました。 映像日記の中で、脱毛の悩みを打ち明けた際に出会ったのがNPO法人全国福祉理美容師養成協会、通称「ふくりび」さんです。番組のディレクターさんから「矢方さんがウィッグや髪の毛の悩みについて相談できる場所が愛知にもあるので、行ってみませんか?」というお言葉がきっかけで、ふくりびさんの施設「あぴサポあいち」にお邪魔したのが始まりでした。そこには、理事長の赤木勝幸さん、事務局長の岩岡ひとみさんがいました。普段の悩みを打ち明けたとき、正しいと思ってやっていたことが実際は間違っていたことや、ウィッグを使う際は自分に合うものを選ぶことの大切さを教えていただきました。 ふくりびさんのウィッグもそのときに初めて被りました。家族以外の人に脱毛してしまった頭を見せる抵抗がありましたが、説明やウィッグのお手入れをしてくださっているうちにだんだんと心の壁がなくなって、「自分でなんとかしなきゃ。誰かに悩みを相談したら迷惑だ」と今まで思っていた気持ちがすっとなくなったのを覚えています。 このときから、私の頭に合わせてウィッグをつくっていただいたり、ファッションに合わせて長さやカラーもアレンジしていただいたりしました。その日に合わせてウィッグを変えることで、脱毛中もモチベーションを上げて過ごすことができましたし、髪だけでなく、ネイルやメイクの方法についてもアドバイスをいただきました。抗がん剤治療中に友人の結婚式への参列があり、ウィッグのヘアアレンジを普通の美容院でお願いするのは少し勇気がいるし難しいと感じていた時も、ふくりびさんでヘアセットをしていただいた時は本当に嬉しくて、ウィッグを気にすることなく楽しい時間を過ごす事ができました。普段の生活で気をつけることや、心の悩みを聞いてくださったことも、自分の心の支えになっています。 続く治療 抗がん剤と放射線治療を終了し、現在はホルモン療法を行っています。ホルモン療法では1日に1錠、薬を飲み、3ヶ月に1回お腹に注射をしています。治療は意外と楽かと思っていましたが、この治療は10年間。あと9年ほど続きます。 ホルモン療法が始まってから、ホットフラッシュと言われる現象が常に起こっています。急に体がガッと熱くなってきたり、イライラしたり。そんなに気にならないだろうと思っていましたが、移動中に汗だくになってしまったり、温度調節が上手くできず、周りと体感温度が違ったりする事はとても大変です。こればかりは「周りが気を使ってよ!」なんて言えないですし、言ってしまうのは身勝手だと思うので、普段は薄着で着脱できる服装や冷たい飲み物を常に持ち歩いて、体の中から冷やして体温を下げたりしています。病気にならないとわからない悩みもあるんだと、すごく感じています。 仕事 病気になってから色々な悩みや心配はありますし、正直ゼロになることはないと思います。でも、今も前を向いて進めているのは、変わらず仕事ができている事が関係していると思います。 「さあこれから声優の夢へと本格的に向かっていこう!ナゴヤから自分を発信するんだ!」と思っていた矢先に乳がんに罹患し、「夢も希望も…絶望的だな」と思っていました。もう仕事は絶対できないだろうと思い、これからどうしたら良いのかもわからなくなりました。そんな時、悩みを主治医に話したところ「治療をしながら仕事もできますよ、仕事は辞めなくても大丈夫ですよ」と言ってくれました。その一言が私に希望を与えてくれて、治療はどうなるか分からないけれど、無理しない範囲で仕事を続けることにしました。 乳がんだと分かってからレギュラー出演していたラジオやお仕事を1ヶ月ほどお休みしていましたが、退院した当日にZIP-FM「サブカルキングダム」というラジオの収録現場に見学で参加し、1週間後には、この番組で仕事に復帰することができました。現在もこの番組に出演させていただいています。 「無理はしない」を一番に体調とスケジュールを上手く調整して、今も変わらず仕事を続けています。その中で自分のことを話す機会も増え、初めはどのように伝えれば良いのかとても悩みましたが、この1年で知り合った同じ乳がんサバイバーの方とお話した際に「美紀ちゃんの発信が私の希望だし、本当に嬉しいの!ありがとう!」と言っていただいた事がありました。 私は何も持っていないけど、こうして出会えたことや、抱えている同じ悩みや思いを、より多くの人に知ってもらうきっかけにこれからもなれたらいいなと思っています。 自分がやりたいことに挑戦する 今、仕事もプライベートも好きなことを日々追いかけています。きっとこの先も病気は切っても切れないものだと思いますが、今の私だからこそできることを発信したいです。その中の一つがファッション。私は元々、ファッションが好きですが、乳がんがあってもなくても関係なく、オシャレできるアイテムが必要だと思います。例えば、下着。胸を手術したことをきっかけに、今まで使っていた下着を処分しました。今はカップ付きのキャミソールを2枚重ねて過ごしています。自分にとってもそうですし、誰かが笑顔になるきっかけづくり、これがあってよかったと思えるモノ作りに挑戦していきたいです。これが私にできる事なんだと思います。 未来 1秒先も分からない日々が、これからも続きます。この1年で私はたくさんの方に出会い、支えられ、成長することができました。きっと1人ではここまで変わる事ができなかったと思います。日々の中で当たり前のように起きる出来事をそのままにするのではなく、変化を恐れず、これからも矢方美紀にしかできない事やモノを生み出していきたいです。 矢方 美紀 Miki Yakata 1992年6月29日 大分県出身 7年半所属したSKE48を卒業後、タレントとして活動を始める。 2018年4月、25歳の時にステージ2Bの乳がんにより、左乳房全摘出・リンパ節切除の手術を受ける。 「自身の身体を知る」ことの重要性を伝えるとともに、がんになっても夢を諦めない、前向きに生きている姿を日々発信している。 現在は、テレビやラジオ出演・ナレーション・MC・講演会当、名古屋を拠点に全国的に活動中。
[Survivor Story] Mika Shimokawa

PiNK Spring 2020 TEXT: Mika Shimokawa PHOTO: Sora Shimizu (Japanese Text Only) 生まれ変われるなら、生きているうちに 「これは検査です」 私の乳がんは定期健診で見つかったものではありません。私の左乳房には20代前半のころから「何かコロコロするもの」がありました。まだ乳がん検診受診の啓蒙なども活発ではない時代でしたが、自主的かつ定期的に乳腺外科に行っては検査を受けていました。検査のたびに「良性のものです。心配ありません」と言われホッとしたのを覚えています。 ところがしばらく検査に行けない時期があり、なんとなく「コロコロするもの」が大きくなったような気がして久しぶりに検査を受けたところ「精密検査が必要」と言われました。色々な手法で検査を試みたのですがなぜかうまくいかず、良性か悪性かの判断がなかなかつきませんでした。担当の医師は業を煮やしたのか、「検査のために必要なところを切り取りましょう。そのためには全身麻酔で1泊の入院が必要です。少しですが乳房の変形もします。」と言い、検査のための入院を勧めてきました。 当時の私は「検査のために全身麻酔をして入院する?検査なのに乳房が変形する?」と戸惑うばかりでどうしても理解できず、何回も「それは検査ではなくて、摘出する手術なのではないですか?」と担当医に質問したのですが、「これは検査です」の一点張りでした。説明を求めてもまるでその検査しか選択肢がないような話しぶりで、検査で乳房が変形することに抵抗がある私と担当医の間の溝はそのまま埋まることがなく、担当医に対する不信感が募りその病院に出向くことをやめてしまいました。今でもこの選択が正しかったのかわかりません。 やっぱりがんだった その後、私生活でつらい時期がやってきました。元夫の不貞が発覚し精神的にも肉体的にもボロボロになり、悲しみと苦しみに耐えるのに精いっぱいで将来のことなど考えられない日々で、自分の健康のことなど気にする余裕がまったくありませんでした。 しかし離婚調停が進み結論が見えてきたころに、健康な自分を取り戻して新しい人生を始めようという前向きな気持ちとなり、しばらく後回しにしていた乳腺外科の受診を決心しました。偶然にも前回の担当医に診てもらうこととなったのですが、検査結果を聞きに診察室へ入った瞬間、医師の表情から良くない結果であることが伝わってきました。そして直感通り、医師は険しい表情のまま「がんですね」と診断を下しました。その結果は衝撃というよりも「やっぱり」との思いが強く、診察室にいた看護士さんのほうが動揺しているようにさえ思えました。 医師からはステージ1の浸潤がんであること、手術は全摘か部分切除で、部分切除の場合は放射線治療が必要であること、がんの顔つきが凶悪なので抗がん剤治療が必要であることの説明を受けました。私が手術による乳房の変形のことを気にしていることを伝えると、あたかも「命に係わる問題なのに見た目にこだわっている場合なの?」と言わんばかりのあきれたような表情をされたため、「この医師とは理解しあうことは出来ない。絶対にこの医師の手術は受けない」と決心し、手術をしてくれる別の病院を探すことにしました。 募る焦り ただでさえ離婚騒ぎで心配をかけている両親に、がんが見つかったことを知らせるのはとても心苦しく感じました。しかしこんな大事なことを隠しているわけにはいかないと思いなおし、なるべくわかりやすい言葉で客観的な事実のみを説明しました。両親は驚き、動揺していましたが、姉が「心配しすぎるのもよくない」と両親をなだめ、私の気持ちを汲み取り「自分自身が選択した方法で希望の治療を受けるといい。経済的な心配はいらないから」と後押ししてくれました。 それからは図書館で標準治療ガイドラインの本を読み漁り、インターネットでは乳がんの症例を検索する日々が続きました。ここはと思った病院には予約をいれ受診しようとしましたが、そもそも予約が数か月先までとれない病院や、受診できても手術は半年後しか受けられない病院などがあり、病院探しは想像以上に難航し焦りが募りました。そんな中、とてもきれいな再建の症例を掲載しているクリニックのウェブサイトにたどりつき、そこで「皮下乳腺全摘+同時再建」という方法を知りました。それはまさに自分が望んでいた手術でした。ダメ元でクリニックに電話したところ数日後に予約の空きがあったため急遽有休をとって受診することにしました。担当の医師からは私の症例でも皮下乳腺全摘と同時再建が可能であること、入院は1泊、3週間以内に必ず手術できるよう手配すると説明があり、迷わずその場で手術の予約をしました。 検査を重ね治療方針を決める 今でも手術台に上った時のことを鮮明に覚えています。がんと診断された時泣きはしなかったのに、手術台で担当医から始めますよと声をかけられた瞬間、「やっと手術が受けられるんだ」と緊張の糸が切れたのか涙が溢れ出て止まりませんでした。 手術は無事に終了しがんの診断には変わりはありませんでしたが、リンパへの転移はなく悪性度も高いものではなかったため抗がん剤をするかどうかは自分で決めるよう説明がありました。自分では判断がつかなかったことから、当時は保険適用されていなかったオンコタイプDXという検査を受け、統計学的には抗がん剤をしてもしなくても生存率に変わらないケースということがわかりました。そのため私の治療方針は抗がん剤なし、全摘のため放射線治療もなしで、ホルモン受容性の高いタイプのがんだったためホルモン療法のみとなりました。また姉の勧めもあって遺伝性乳がんについての検査も受けましたが、こちらは陰性と診断されました。 家族をつくりたい 手術も終わり、再開した離婚調停も結審して区切りがついたことから、何か始めようとゴルフスクールに通い出して出会ったのが今の夫です。 知り合って間もない頃に、がん治療中であると伝えることに戸惑いはありませんでしたが、結婚を意識し始めた頃に、妊娠そのものががんの再発リスクを高めるため妊娠や出産ができないことを伝えるのには勇気がいりました。しかし二人で将来を描きながら色々と話をするうちに、産みたいのではなく子育てをしたい、家族をつくりたいという共通の思いに気づいたのです。様々な形の家族が身近にいたためか血のつながりへの拘りがなく、不妊治療は最初から私たちの選択肢にはありませんでした。 夫は建築設計士で児童養護施設の設計に関わった経験から、生まれた家庭で育ててもらうことのできない境遇の子どもたちがたくさんいるということを知り、自然と特別養子線組という選択に至りました。しかし特別養子縁組までの道のりも平坦ではありませんでした。 特別養子縁組で母となる 特別養子を育てる養親となるには、都に養子縁組里親登録をして児童相談所からの紹介を待つか、民間の斡旋団体に登録するか、主にこの二つの方法があります。私たちは結婚してすぐに養子縁組里親の講習を受け、同時に民間の斡旋団体探しも始めました。しかし民間の各斡旋団体においては独自の厳しい養親の審査基準を設けており、これが私たちにとって大きなハードルとなりました。例えば共働きは不可(母親が育児に専念すること)、不妊治療をしたことがなければ不可、年齢制限など、私たちが養親としての応募条件を満たせない団体が少なくありませんでした。 そんな中、応募条件も満たし活動内容のポリシーにも共感できる団体があり応募したところ順調に話が進んだのですが、あと一歩で登録というところで私たちの婚姻年数が短いという理由から断られてしまったのです。婚姻年数の条件を満たすまで待っていたら今度は年齢制限を超えてしまう。後がない私たちは何とかならないかとその団体と交渉を続けました。私たちが無理を言っているのは重々わかっているし、団体の担当の方も電話口で困っている様子がうかがえました。でも、今ここであきらめたら子どもを迎える可能性がなくなってしまうと必死にお願いを続けていると、団体の代表の方が替わって電話にでて「うちでは無理なのですが、素晴らしい信念を基に活動されている方々が最近斡旋団体を発足されたので紹介しましょう」と提案してくださったのです。 私たちはすぐさま紹介された斡旋団体の代表の方に連絡をとりました。これまでの事情を伝えたところ「まずは会ってお話をしましょう」と面談をセッティングしてくれました。面談は終始和やかで、年齢や収入、婚姻年数などの条件だけで判断するのではなく、会ってみた印象や私たちの思いを何よりも重要視してくれていると感じました。そしてその団体への登録が認められ幸運にも男の子を迎えることができ、さらに幸運なことに翌年には女の子を託されたのです。新生児から育てた子どもたちは5歳と4歳になり、傍から見れば普通の親子が普通の毎日を過ごしています。 小さな喜び 私はどちらかというと子どもが苦手なタイプで、親戚の子どもと会った時も何をどう話したらよいのかわかりませんでした。ある日突然新生児が我が家にやってきてまさにてんやわんやでしたが、子どもたちと一緒に暮らす毎日は小さな喜びに満ち溢れていて苦手意識など感じることすらありませんでした。 子どもたちが通う保育園では連絡帳を使って保育士と保護者が連絡を取り合うのですが、ある時ずっと文章で書いていた子どもの様子を1コマ漫画で描いたら、見る保育士さんも楽しいんじゃないかと思い立ち、軽い気持ちで漫画にしてみました。絵のほうが読み返したときにこんなこともあったねと思い出しやすく、何よりも漫画のネタ探しのために「子どもたちが今日こんなことを言ったんだよ」などと夫婦で報告しあうのが日課になり、思いがけない副産物となりました。 家事・育児に関しては「夫婦が完全に同等にできる」ことを目指しています。もちろん各々得意分野は異なるのでそのあたりはうまく比重を分散しますが、もともと料理や裁縫も得意な夫だったので育児についても安心して任せられ、最近では夜の外出もできるようになってきました。ここまでくるのには試行錯誤がありましたがとにかく話し合って、進むべき道を一緒に考えてくれた夫には感謝です。 特別養子縁組は子どもの福祉のための制度ですが、乳がんをはじめとする様々な病気があることで妊娠出産について思い悩む人たちに、子どもを持つための選択肢の一つとしてもっと知られるようになればいいなと思っています。そのためにも私たちが託された子どもたちを大切に育て社会に還し、良い前例の一つとなれたらいいなと思います。 一日一日を大切に 現在術後9年目で、タモキシフェンによるホルモン療法も残すところ2年をきりました。振り返ればいろんなことがありましたし、これからも様々な問題がでてくるでしょう。でも、今の私は「何があってもとりあえず何とかなるんじゃないかな」という気分です。 以前の私は何をするにも慎重派で消極的、何か新しいことを始めるというよりは、始めない理由探しばかりをしているような人間でした。ですが、がんが見つかって自分の命に限りがあることを実感してからは、とりあえずなんでもやってみようかなという気持ちが強くなりました。お恥ずかしい話ですが、気ままにひとりで過ごしていたころは明日も今日と同じ日がやってくると漠然と思っていたし、なんでも後回しにしていたように思います。 それが今では、できることは早いうちにやろう、やりたいことや好きなことはどんどん周りにアピールしよう、そうすればいいお話が舞い込んでくるかもしれない、とまで考え方がガラリと変わりました。もちろん時には過去の自堕落な自分にもどってしまうこともあるのですが、年に1回の精密検査で問題なかったという結果をきくたびに初心に帰ります。健康でいられることに感謝し、まさに「生かしてもらっている」と感じます。一日一日を大切に過ごしたいという思いも強くなり、日々の生活で何か冒険できることはないかな、とアンテナをはるようにもなりました。私にとっては砂漠やジャングルを探検するようなことだけが冒険ではなくて、たとえば駅から自宅までのルートを変えてみる、ランチで目新しいメニューをオーダーする、今までの自分ならお断りをしたようなお誘いでも積極的に受けてみる、などのなんでもないことの小さな積み重ねが冒険や挑戦だと思っています。 乳がんが見つかってから手放したものもあれば、手放した分、新たに手に入れたものもあります。乳がんにならなければ出逢うことのなかった方たち、経験することがなかっただろう素晴らしい機会、変化した人生観など、枚挙に暇がありません。乳がんが見つかったこと自体は私にとって衝撃的な事実であることに変わりはありませんが、自分が変化する大きなきっかけになりました。 ピンチはチャンスとよく言いますが、何か障害が立ちはだかった時に、自分で考え、信頼できる人ととことん話し合って、ひとつずつ地道に乗り越えてきたのが今の自分につながってきたと実感します。陽当たりのよくない、曲がりくねった細い道を、時には双六の「ふりだし」にもどるような経験をしながらもなんとか知恵を絞ってしぶとく歩いてきました。もしかするとちょっと変わった道のりだったかもしれませんし、これからもまた平坦ではないこともあるでしょう。でもその分、一味違った景色を見て来られたのかもしれませんし、これからもなにが起きるか楽しみです。まだまだ冒険は続きますね。 下川 美佳 Mika Shimokawa 東京都在住 2011年11月皮下乳腺全摘、同時再建手術を受ける。金融業界でのSEの経験を活かし、現在は保険関連のビジネスアナリストとしてとして奮闘中。乳がん治療中に知り合った夫とともに特別養子縁組で二人の子どもを迎える。一方、高校生のころからマイナー雑誌への漫画連載で小遣い稼ぎをしていた超長期休筆中の漫画家でもある。最近になってようやく重い腰をあげ、ブログで乳がんが特別養子縁組について発信中。 好きな言葉は「生まれ変わるなら生きているうちに」
[Survivor Story] Yukiko Ohta

(Japanese Text Only) キャンサーギフトという言葉はがんになったからこそ得られたものという意味で使う言葉です。告知から2年経ち、気が付いたら、今がんになったからできるようになったこと、出会えた人、新しい視点がどんどん増えていたことに気がつきました。 私のがんが発見されたのは2年前の3月の終わりのことです。それまで育児で仕事を離れていましたが、再び仕事を始めたのをきっかけに検診を受けた時でした。最近少し貧血のような倦怠感があって、この際一度色々と調べてみようと思い、エコー・マンモグラフィーの検査をしました。その3日後、携帯に電話がかかってきました。 「胸にあきらかなしこりが見られるので、至急入院ができるような大きな病院へ行ってください」 次の日、紹介状を持って病院へ行くと、先生がエコーの画像を見ただけで「悪性ですね」と判断されました。腫瘍がかなり大きいとのこと、至急その日から受けられる検査を全て入れてくださいました。 私はそれまで風邪もほとんどひかず、自分自身の健康体を自負していたので、本当に「まさか私には」という心境。頭の中が真っ白になりその日どうやって帰ったかも思い出せないような心境でした。夫と息子がいるのですが、その日2人には何も伝えられませんでした。 ” 私はそれまで風邪もほとんどひかず、自分自身の健康体を自負していたので、本当に「まさか私には」という心境 “ ちょうど小林麻央さんの乳がんがテレビで報道されているタイミングで、辛辣な心境を抱いていたさ中、まさか自分が同じ病気に・・・。子供がまだ小さいのにどうしよう。当たり前のようにこの先もずっと続くと思っていたものが急に見えなくなったような気がしました。 状況を夫に話せたのはそれから2日後でした。明日から4月、新しい職場へ出勤するために準備していた夫にこのような話をすることも心苦しかったのですが、 「どうやら がんみたいなんだよね・・・。それも結構進行しているようで」 その時夫は、実父をがんで亡くしている経験もあってか意外にも平然とした口調で「まだそんなに進行しているようには感じない、危惧しても仕方がない」という動じない姿勢だったような気がします。治療中もその姿勢は変わらず、いつもとさほど変わらない生活を過ごせていたことで私自身も平常心を保てたように思います。 その後、義理の母に相談した際には「義理母ぐらいの年代になると、がんに限らずみんなそれぞれ何かしら持病のようなものをもっていたりする、今は医療も進んでいるし、そんなに心配しなくてよい」と応援してくれました。ただ息子に対してはどうしてもまだ「がん」ということを伝えることができず、その後も長い期間を過ごしてしまいました。 “治療中もその姿勢は変わらず、いつもとさほど変わらない生活を過ごせていたことで私自身も平常心を保てたように思います” その間に針生検の正式な結果をいただき、結果は「浸潤性乳管癌 ホルモン陽性 Her2陽性 ステージ3」というものでした。病院から以下のような標準治療を提示され、 まだ根治を目指せるという希望を与えられました。 ・化学療法 AC×4回 ・合間にジーラスタ投与 ・化学療法 パクリタキセル x 12回 ・分子標的治療薬 ハーセプチン術前x 12回 ・全摘手術 入院11日間 ・放射線治療×30日 ・分子標的治療薬 ハーセプチン術後x 18回 ・ホルモン治療5年 (処方薬名 ノルバティクス)』 その後、がん治療を専門とする病院へ転院し、化学療法から治療がスタートしました。化学療法にあたっては、脱毛をはじめ様々な副作用についても、最初は不安ばかりがつのっていました。 友人の中にもまだがんになった人を知りませんでしたし、両親もがんとは無縁。自分がこの先どのようになるのか具体的に想像できるのは、ドラマや映画などに出てくる入院による抗がん剤のイメージや死のイメージでした。すぐそばに同じような経験をしている方がいて、その人が治療をしながらも自分らしく生活ができている様子を知っていたら、ここまでの不安はなかったのかもしれないと今では思いますが、この時は急に自分だけが別世界に入り込んでしまったようなそんな孤独感がありました。がんになって良いことなんか何もない、そんな心境でした。 そんな中ついに、治療がスタートしました。 ACといわれる化学療法を3週間おきに4回投与する治療は、倦怠感と吐き気、肌の黒ずみ、脱毛があり、体調的にも精神的にも一番大変な治療でした。さらに免疫が下がり過ぎるのを防ぐため、翌日にジーラスタという注射を打ちに行く通院が一番体力的にも辛かったです。感染症を気にして、外出もなるべく控えたりしていました。 最初はそのようにびくびくしながら生活していましたが、続くパクリタキセルとハーセプチンという化学療法は、手足のしびれはあるものの、さほど倦怠感もなく、慣れとともにだんだんと日常の生活ができるようになっていきました。付き添いがなくても通院の電車で気分が悪くなることもありませんでしたし、その後、化学療法をしている方には仕事と両立している方もいることを知り、最初に抱いていたイメージとは異なり、化学療法といっても日常生活を普通に送れるものだという自信が湧きました。 半年に及ぶ術前化学療法が終了し、検査をおこなったところ、腫瘍は0.03mmにまで縮小しほぼ消滅といわれました。 自分の身体の中のがんが縮小していく体験をしたことで、現在の医療や周囲の方への感謝の気持ちを持つことができました。私自身は何をしたわけではなく、多くの方が関わってくださり、支えてくださり、医療を提供してくださったことで、再び希望を与えていただいた体験でした。 その後の手術、放射線治療、化学療法を終えるころには、最初に感じていた、がんになってよいことなんか何もないという心境から、多くの感謝の気持ちを抱けるようになっていました。 しかし治療をする中で、ネックとなっていたことは、そのころ低学年だった子供にがんをどう伝えたらよいかということでした。このことに悩んでいたときに CLIMBというプログラムに参加させていただき、この中で同じ境遇の人たちとの多くのつながりができました。 テレビでがんのことが報道されていたタイミングでもあり、私は子供と少し前にがんについて質問をされ、何の気なしに、「がんは怖い病気」というような話をしてしまっていたところでした。まさかそのがんになってしまったということを伝えたら、子供に大きなショックを与えてしまうのではないかと思い、私は治療中ずっと「がん」という言葉を伏せ、「ポリープ」とし、うやむやにして過ごしていました。 いつか必ずわかることだし、隠すのはよくない。ただどう伝えたらショックを与えないか、よくわからなかったというのがあります。 プログラムに参加する中で、子供に隠すことの弊害を知りました。子供にきちんと話し、協力を仰ぐことで、彼らには思っているよりも受け止める力があることを教わり、伝える前に比べ、伝えた後の方がとても楽になりましたし、子供自身も協力的になってくれました。 プログラムには、同年代の同じような悩みを抱えた方が来ていて、親同士も子供たち同士もまた同じ境遇であることからすぐに打ち解け、心境や悩みを共有する場を持つことで気持ちが前向きに変化しました。 一言でがん患者といっても本当に様々で、子育て世代で同じような状況の人に相談したいと思っても、出会える機会を見つけるということは本当に難しいのですが、つながることができたのはとても貴重な時間になりました。この時の出会いから、『MotherForest』という名前の患者会をつくって、新たにがんになった方へ共有の場を提供し続けています。 “彼らには思っているよりも受け止める力があることを教わり、伝える前に比べ、伝えた後の方がとても楽になりました“ キャンサーギフト(がんになったからこそ得られたもの)という言葉を知ったのもこのころですが、確かに、気が付くと、がんになってから出会うことができた人、新しい視点、機会がどんどん増えていました。身体が、がんにむしばまれていったとしても、かわりに増えているものがあるなら、なんとなく安心します。「失うものばかりではなく、悪いことばかりでもない」 このことに気が付けたのは、こうしたつながりの場で周囲の方に身をもって教えていただいたからでした。 このように、私にはがんになってからの出会いから得たキャンサーギフトがいくつかあります。一つ目は、MotherForestをはじめ、同病の方とのつながりでした。告知を受けた時は一人だけで戦っているような気がしましたが、気がついたら多くの方が同じ方向に向かって走っていたということに気づきました。そしてこれからも5年~10年とがんと向き合いながら過ごしていく中での同志を得たと勝手ながら思っています。 二つ目は、ご縁があって、がん患者のつながるアプリtomosnote開発責任者のAFLACの田中麻衣さんに、患者という目線からご協力をさせていただく機会に恵まれたことです。こちらを利用する中でも、つながることによって多くの安心や励まし、心の余裕、時間を得るという体験ができました。 今はネットでどんなことでも調べられる反面、どれが正しい情報なのかわかりづらく、告知後の最初の段階で信頼できる情報へたどり着けることがとても重要だと思います。がんになってしまった方を支えようと、日々試行錯誤してくださっている方々がいることに勇気づけられ、励まされます。 最後に、挙げられるキャンサーギフトは、こどもの成長の場面が見られるようになったことです。がんということを伝えたあとの子供は、以前より協力的な姿勢をみせてくれることが多くなりました。家事の手伝いなども以前にくらべ、少しではありますが、積極的にしてくれるようになっています。テレビでがんに良い食べ物などを聞くと、すかさず教えてくれたりしますし、学校での福祉関係の授業も興味を持って取り組んでいるように感じます。ほんの少しではありますが、がんになったことが新しい変化をもたらすギフトになっていると確かに実感しています。 毎年多くの方が新たにがんになり、毎日どこかでがんの告知を受けている方がいて、その人が私と同じようなショックを受け、絶望や、悲しみや、混乱の中にいるとしたら、今後は私自身が経験した体験から、「決してがんになったからといって悲しいことばかりではない、がんになったからこそ得られることもある」という励ましのメッセージを、ぜひ一人でも多くの方に届けていきたいと思っています! 誰でも起こりうる、がんと向き合う期間を一つのライフステージととらえて、その期間をもっと充実して前向きに過ごせるようなお手伝いができたらと願っています。 “私自信は何をしたわけではなく、多くの方が関わってくださり、支えてくださり、医療を提供してくださったことで、再び希望を与えられた体験でした” <太田由貴子さん […]
[Survivor Story] Tomoko Iida

(Japanese Text Only) 病気に思い悩む時こそ、好きなことに没頭してみて 私が、乳がんに気づいたのは2003年。看護師として勤続20年を迎え、15日間の特別休暇をいただいて、アメリカに旅行をした後のことでした。海外ではずっとシャワーだったので、休暇の最終日はのんびりお風呂に入ろうと向かった温泉で、何気なく乳房に触れた時のこと。コリっと、硬いしこりがあったのです。定期的な自己触診やマンモグラフィー検診はしていなかったので、本当に偶然の発見でした。それでもその時は「ちょっと気になるけど、明日から仕事だし、どうしようかなぁ…」くらいの気持ちで、まさか乳がんだとは思いもしません。 翌朝、勤務先でお土産を渡すついでに友人に話したら、「今すぐ、先生に診てもらった方がいい」と言われて事態が急変。スタッフから不在期間中の報告を受ける間もなく、慌てて診察室へ。すると先生は触っただけで、「これは、乳がんだね」って。普通の患者さんには言わないのでしょうけれど、私が医療従事者だったので、ハッキリおっしゃられたのでしょう。「1cm弱の小さいものだから、心配することはない」と言ってくださったのですが、動転していて冷静に聞くことができず、ただ、ただ、唖然としていました。何しろ、急な展開でしたから。診察についていた看護師から「どうする?」と聞かれましたが、どうするも何も…。「治療するしかないですね」と話して、そのまま針生検や超音波検査を受けました。 結局、私の乳がんのサブタイプはHER2陽性で、乳房温存術をすることが決まりました。乳がんの位置的に温存できるか難しいと言われましたが、「温存だろうが全摘だろうがどうでもいいから、早く手術して早く復帰したい!」「とにかく、早く次に進んで欲しい!」いう気持ちの方が強くありました。周りの人も主人も、がんと聞いて心配していましたが、私は落ち着いていました。「がん=死」というイメージがあるかもしれませんが、適切な治療をすれば完治する確率はとても高いことを知っていました。私は病気について悲しんだり、焦ったりすることなく、仕事や休暇の調整をしてから、入院して手術をしました。手術後も、夕方からご飯を食べて、トイレにも自分で行けるくらい元気でしたし、1週間くらいで仕事に復帰!自分でも驚いたくらいです。 むしろ大変だったのは、仕事をしながら受けた放射線治療の方でした。患部がヒリヒリするし、熱いし、痛いし、腕は上がらないし…。患部が気になって、落ち着いて働けないのです。治療開始から2週間は、何とか仕事と両立させましたが、残り3週間は休職しました。この放射線治療の間、私はずっと同じ乳がんの友人が欲しかったのですが、入院は個室でしたし、放射線治療に通ったときも知り合うことができませんでした。それじゃあ、とインターネットで乳がんの方を探したことから、後に乳がん患者会を一緒に立ち上げ、アロマテラピーの本も共同執筆した、千葉治子さんと出会えたのです。 優雅な別世界で、QOLがアップ! 千葉治子さんは、2000年に乳がんと告知された私の5つ年上の女性です。インターネットで知り合った乳がんの方に誘われて、千葉さんご自宅のオフ会に伺ったのが始まりでした。会場は綺麗にテーブルセッティングされて、そこには私の大好きなピンクの小物が!集まった皆でおしゃべりしつつ、素敵なお料理やビーズの時計作りを楽しみました。はじめて試したアロマテラピーも良い香りで、その場ですぐ注文。花の名前もよく知らなかった私ですが、次もアロマの会をリクエストして、ウキウキ、ルンルン気分で帰宅しました。とにかく千葉さんのオフ会は、私にとって優雅な別世界!お昼休みは10分15分でサンドイッチを食べて終了。平日はほぼ外食という看護師の生活とは全く違いました。だからこそ、おしゃれな空間でゆったり過ごした1日は、放射線治療中だった私のQOLを格段に高めてくれたのです。放射線治療は大変でも、楽しい会に行けば気が紛れると気づいた私は「これは、楽しむしかない!」と決意。千葉さんとお茶やイベントに出かけたり、メディカルアロマテラピーの勉強を開始したりしました。 そんな楽しい休職期間が終わると、いよいよ化学療法の開始です。私の場合は働きながら、金曜にFEC療法を受けました。薬はエピルビシンとシクロホスファミド、フルオロウラシルを使用。放射線治療ほど辛くはなかったのですが、脱毛や吐き気などの副作用は出ました。治療の当日と翌日は何も食べられなかったし、約3週間後には髪も抜けました。そんな治療期間中も、知り合った乳がんの方とお出かけの企画をしたり、ブログで応援コメントを出し合いながら交流を続けていました。そして、6クールの化学療法が終わった後は、ほぼ年休が無い状態に。治療が終わった後は定期検診を受けながら働いていましたが、1年ほど経った頃、私に今度は異動命令が出たのです。 我慢をやめて、自分のために生きる この異動がキッカケで、私は長年お世話になった勤務先を辞めました。再発する可能性も考えて、「我慢しないで、自分のためにやりたいことをやろう」と思ったのです。当時、医師が出した私の10年生存率は「93%」。そう悪くない数字だと思われる方もいるかもしれませんが、「100人いれば7人は死ぬ」と考えると、シビアな数字です。仕事はやりがいがあるけれど、平日に開催される乳がん仲間とのオフ会に行けなかったり、我慢することも多かった。忙しすぎる仕事のせいで、病気になったのかもしれないと感じるところもあり、異動を機に、「いったん離れたほうがいい。自分のために、自分のことをしよう」と退職を決意。仕事を辞めてからは、フラワーアレンジメントやクレイフラワー、料理、アロマテラピーの勉強と、とにかく予定を入れまくりました!とても忙しかったけれど、好きなことだから全く苦にならない(笑) そんな日々の中で、大きな転機になったのが株式会社エイボン・プロダクツのプロジェクト。私が放射線治療中に「保冷ブラジャーを出したほうがいい」と言っていたのを覚えていた同僚が、エイボンのプロジェクトへの応募を勧めてくれたのです。「私のように、治療の苦痛に悩む人が少しでも減ったらいい」という願いで応募したら、嬉しいことに採用が決定!内側に柔らかいジェル状の保冷剤が入るブラジャー、『パルフェ』を考案して制作しました。可愛いブラジャーにしたくて、ボランティアスタッフでワンポイントの刺繍もしました。放射線治療中の方にブラジャーの試着をしていただいたら、私の時のような苦痛を感じた方がいなかったので、本当にやって良かったと思います。この『パルフェ』は、東京・中日新聞に掲載されたおかげで、名古屋からたくさん注文を頂きました。さらに、私たちがアロマテラピーの資格を持っていて、乳がんの方向けのセルフケアの講習会も行っていたことから、「名古屋でもやって欲しい」とリクエストをいただき、名古屋で講習会を開催。これを皮切りに、千葉さんと内輪で行っていた乳がんの方向けのアロマテラピーの会を、外にも広げていったのです。 病気になっても、1人じゃない 千葉さんには、乳がんの方のためにアロマテラピーの本も出したい、という希望がありました。『「あなたは乳がんです」「生存率はこれくらいです」と言われると、本当にどん底に突き落とされた気持ちになってしまう。でも、そのことばかり考えるのではなくて、もっと前向きに考える方が良いと思う。私たちがやって良かったと思っていることや、対症療法について、そばで助言してあげられるような本を作りたい。情報はインターネットにも書いているけれど、ネットを見られない方のために本にして届けたい」』というのが、千葉さんの想いで私は、それに強く共感しました。病気になって分かりましたが、たとえ家族や友人がいてくれても、真の気持ちはどうしても、同じ病気の人同士でないと分かってあげられないところがあるのです。「病気になっても1人じゃない。そっと寄り添う私たちがいる」「アロマテラピーという役立つ手段もある”という千葉さんの想いを、一緒に伝えたかったのです。 しかし本の企画は、なかなかうまく進みません。そのうち、乳がん再発後も元気だった千葉さんの気力や体力が衰えてきました。一方、私はやりたかったことをやり終えて、保健同人社で働き始めていました。そこで千葉さんのために何かできればと、勤務先に本の企画を持ちかけたところ、出版が決定!それからは、2人で様々なイベントに出かけて本の宣伝をして、執筆も共同で行いました。彼女は、病床でも本に使う写真を選び、最後まで懸命に取り組んでいましたが、残念ながら、本の完成前に亡くなられました。完成した本を手に握らせてあげたかったことは、今でも悔やまれてなりません。亡くなられてから数日間は、私は人から話しかけられるたびに涙ぐんでしまうことが続きました。職場でも「今日は帰っていいよ」と言われたくらい、やりきれない思いでした。千葉さんが亡くなってから本ができるまでの約半年間は、寝ずに残りの執筆・編集作業が続きました。夜中に監修の先生と打ち合わせをして、友人と一緒に「千葉さんが言いたかったことは?」と考えました。とにかく大変だったので、色んな方に見ていただいた最終のゲラは今も手元に残しています。こうして完成した『乳がんの人の心と体に 素敵にアロマテラピー』は、私の宝物。この本を残してくださった千葉さんに、本当に感謝しています。私は今も、彼女と一緒に頑張っている気持ちなので、講演やイベントに行く時は、必ず千葉さんの写真を持って行きます。 アロマテラピーは、自分と向き合えるツール 千葉さんと一緒に立ち上げた乳がん患者会「Ruban Rose」は、昨年NPO法人にすることができました。今後はさらに、活動内容を充実させていきます。乳がんの早期発見のための取り組みとしては、銭湯でのアロマ石けん作りや自己触診法の講座、大人のがん教育講座を開催。それから『乳がんの人の心と体に 素敵にアロマテラピー』をテキストとした検定試験の実施や、アロマテラピー講師の方との連携、「Ruban Rose」のためにオリジナルで作っていただいたピンク・クレイを使った乳がん患者さん向けのセルフケア講習会など、新しい活動もたくさん予定しています。アロマテラピーは、心身を癒す高い効果がある素晴らしい手法。使用する精油は分子量が非常に小さいので、生命活動を司る脳にダイレクトに届き、皮膚を通して毛細血管に入り、全身に効果を発揮してくれます。その高い効果を、もっと多くの方に届けていきたいです。 私は長年、「Ruban Rose」の活動をしてきましたが、自立している女性が多いのか、ほとんどの方が講習会に1人で申し込まれます。最初は不安そうでも、だんだん笑顔が出てきて、参加者同士で友達になって、最後は皆さんで楽しくお茶を飲みに行って。私とその人だけの関係で終わらず、他の方と繋がっていく姿を見るのは、とても嬉しいことです。皆で集まる会の間は、病気や辛いことは忘れて、ワクワクする楽しさを分かち合うことを大切にしています。もちろん、病気で本当に気になることは話した方が良いし、個別の相談も受けますが、最終的には病気の治療は自分で決めなければなりません。今はお医者さんも、「どういう治療をしますか?」と聞いてきますし、自分でじっくり考える必要があります。けれど、人は考えれば考えるほど、迷って悩んでしまうもの。そんな時は、何か好きなものに没頭してみて欲しいんです。私自身、悩んだ時は大好きなハンドメイドに集中して、悩みを忘れるくらい没頭することで、頭と気持ちをスッキリ切り替えてきました。だから「Ruban Rose」は、皆で色んなことを楽しむ会にしています。アロマテラピーや手作りの体験を通して、好きなことを楽しむ気持ちや、病気になっても1人じゃないということを、伝えていきたいです。 振り返れば、私が乳がんと言われてから15年が経ちました。病気になって良かったとは言えませんが、「キャンサーズギフト」をたくさんいただいたと思います。仕事一筋の頃は世界が狭かったけれど、病気になって様々な人と出会い、数々の経験をしました。ここまで来るには時間が必要でしたし、時間が解決してくれたこともあります。寒い冬は咲かない植物が、春になったら花を咲かせて、夏には緑になり、そして季節がまわっていく。冬が来れば必ず春が来る。植物が裏切ることなく、必ず芽吹くのを見ると嬉しくなります。看護師時代は感じられなかった自然との繋がりを感じ、「何か人のために、できることがあるのではないか?」と、考えるようになりました。自分でも、ずいぶん人間らしくなったと思います。 最後に、乳がんになった方にお伝えしたいのは、前向きでいて欲しいということです。人は、様々なことが起きて変わっていきます。乳がんだと分かったら、まずは前向きに治療して欲しいし、1人で悩まず相談して欲しい。乳がんは、早く手術して取り切れば問題ありませんし、QOLも下がりません。病院で病気に向き合うのが怖い時は、アロマテラピーも役に立ちます。ハンカチにラベンダーの香りを落として病院に持って行けば、やさしい香りで気持ちが鎮まるので、リラックスして結果を聞き、冷静に判断できるようになります。私には、自分と向き合うためのツールとしてアロマテラピーがありました。何かあった時は、ぜひアロマテラピーを活用してみてください。 <飯田智子さん プロフィール> 2003年、大学病院に看護婦として勤務していた時、乳がんと告知されて手術を受ける。 その後、乳がんの仲間と共に、乳がん患者をサポートする活動を開始。 放射線治療中のほてりを緩和する保冷ブラジャー「パルフェ」の考案・制作や、乳がん患者会「Ruban Rose」でアロマテラピーやハーブを使った「素敵にアロマテラピー」の講演会やがん教育など、多くの活動を行っている。 乳がん患者会・NPO法人 Ruban Rose 代表理事 NARDアロマテラピー協会認定アロマインストラクター NARDアロマテラピー協会認定校 SALON DE SOPHIA 主宰 千葉治子・飯田智子著『乳がんの人の心と体に 素敵にアロマテラピー』保健同人社 PHOTO_Hiromi Ando TEXT_Tomoko Iida