22 Mar [Survivor Story] Kaori Tsukuda
PiNK 2021 Winter Issue
TEXT: Kaori Tsukuda
PHOTO: Sora Shimizu
(Japanese Text Only)
病気はその人のパワーを取り戻すもの
「これは検査です」
「何かあるよ。」
定期健康診断で胸のエコー検査を受けているときに、突然言われました。
「すぐに紹介状書くから、このまま待ってて。検査結果をもって、すぐに病院へ行って。大きい病院だよ、わかった?」
一体、何が起こったの?毎年マンモブラフィーとエコーを受けているのに、突然こんなことがあるのだろうか。検査結果を持たされたのはいいけれど、病院のあてもなく途方にくれました。乳がん経験のある友人に相談し、病院に電話しましたが、予約が取れたのは一ヶ月先。不安な気持ちを抱えたまま、一ヶ月過ごすのか。しかしそこから、小さいラッキーの連鎖が始まったのです。
会社の総務の人にそれとなく相談したら、予約を入れた病院の提携クリニックがあると教えてくれ、電話ですぐに予約が取れました。病院のことを相談できる友人や職場の方がいたのは、本当にラッキーだったと思います。
精密検査を受け、マンモグラフィーと触診が終わった後に担当医に言われました。
「残念ですが、このままお帰りいただくことはできません。針生検をします。」
悪性の疑いがある場合、確定診断するためにマンモトーム針生検という検査があり、太い注射針で組織を採取して調べます。着替えるためにロッカールームへ入った途端、目の前が涙で見えなくなりました。手が震えて検査着の紐が結べなかった。
「結果は一週間後に本院でお伝えしますが、ほぼ悪性だと思いますので、どうするかご家族と相談してきてください。」
こう言われて病院を後にしましたが、相談できる家族もいません。
「どうしたらいいんだ ろう。死ぬのだろうか。でも、もしかしたら良性かもしれない」頭の中がぐちゃぐちゃで した。ただただ涙が溢れて、前が見えなかったのを覚えています。
眠れない一週間を過ごしましたが、幸いにも経験者の友人が数人いて、これもまたラッキーでした。検査結果は、もちろん悪性。その日にすべての精密検査の予定が組まれ、手術日も決まりました。サブタイプはトリプルネガティブで、抗がん剤治療をすると伝えられました。腫瘍が4.5cm 以上あったので、ステージは2A。画像上ではリンパ節への転移も疑われました。
フラフラになりながら会社に戻り、すぐに上司に報告することにしました。
「あぁ、クビかなぁ・・・」怖かったけれど、腹をくくりました。クビになったら、その時にまた考えよう。
「病気でもいいから、いて。」
上司はそう言ってくれました。今でもこのことを思い出すと涙が出ます。
「あなたがいつ辛くてしんどいか分からないから、伝えてほしい。」
この言葉は、気持ちをとても楽にしてくれました。辛いときは辛いと言って良いんだ。治療しながら働けるように会社の制度も変えてくれて、フレックスと在宅勤務が可能になりました。
化学療法の日は、朝8:00 前に出社し、仕事を一時間してから病院で抗ガン剤投与を受け、午後は会社へ戻る生活が始まりました。ウィークリーパクリタキセルという毎週投与を受ける抗がん剤だったので忙しいスケジュールでしたが、会社と病院は歩いて15分。これもまた小さなラッキーでした。髪は抜けましたがそれ以外の副作用はほとんどなく、働きながら治療を続けられたことも本当にありがたかったです。
毎日新しい、わたしだね
治療当時はファッションの会社にいたので、どんな服装でもオーケー。ウィッグにはまり10数個は持っていました。毎日髪型が違っても、誰も気にしません。
「ウィッグかわいい!毎日、新しいわたしだね。」
会社ビルでよく行くコンビニの店⻑さんが声をかけてくれたときは、嬉しかった。
ウィッグ、メイク、ファッション。病気だからこそ、おしゃれをする。これが私の支えになりました。メイクアップセラピストとしての活動にも幅が出ました。どうすれば顔色が良く見えてオシャレに見えるか、全て自分の肌で試していました。
仕事をしながら治療するときは、まわりに余計な気を遣わせないことも一つの礼儀だと思うし、自分への礼儀と励ましだと思います。女性は花なのだから。
追い詰められた私が思ったことは
半年間の術前抗がん剤のおかげで、最大7cmあった腫瘍は約半分の大きさになりました。私は「小さくなったから部分切除かな、それとも全摘したほうがいいかな」と、自分がどうしたいかを考えていました。
そんな中、手術の一週間前に主治医から思いがけない言葉をいただきました。
「全摘します。再建はしないよ」
頭が真っ白になりました。再建の場合、乳腺を全摘後にエキスパンダーという拡張器を挿入しますが、それはしないと言われました。追い詰められた私は、手術を受けないことも 考えましたが、私を良く知る友人たちは「あんたらしいね。でも生きてほしい」と願ってくれました。
私はどうしたいんだろう?何度も自分に問いかけました。生きていくからこそ、胸を失いたくない。再建したい。後日、主治医に時間をいただいて思っていることをぶつけました。
「どんなに私が努力しても、もうどうにもならない。」
そう言って、主治医の前で初めて泣きました。
「分かった、再建しよう。ちゃんとするから、まずは治そう。」
なぜ部分切除ではだめなのか、乳頭乳輪は残せないのかを説明してもらった結果、私でも同じ判断をしただろうと納得しました。思っていたより病状は深刻で、主治医が熟考して出した結論だということも理解できました。正直に思いをぶつけた結果、主治医は受け止めてくれてギリギリまで譲ってくれた。自分の思っていることを伝えるのは大切だと実感しました。この決断は、のちに最善の選択となったのです。
祈りと奇跡
手術の日、おそらく数十人の仲間が手術の時間に合わせて祈ってくれました。手術中は夢を見て、みんなの祈りを感じました。目が覚めると、叔母といとこが「良かったね、良か ったね」と話しかけてきて、あとでその意味がわかりました。
当初はトリプルネガティブ、核グレード3、増殖度が速い、リンパ転移有りという見立てでしたが、開けてみるとリンパ転移もなく、悪性と思われていた乳房全体に広がった影も腫瘍に反応していただけで問題なかったので、放射線治療は回避できました。また、手術でエキスパンダーを入れてもらったので、スムーズに再建を進められることになりました。主治医に本音をぶつけて本当に良かった。この一件以降、ますます主治医を信頼するようになったと思います。
病気は、その人のパワーを取り戻すもの
私の師が、贈ってくれた言葉をシェアします。
「病気は、その人のパワーを取り戻すもの。あなたは、生きるの。生きて体験を伝えていきなさい。」
私は、セラピストとして15年近く活動していますが、自分が表に出ることや体験を語ることに抵抗がありました。人は、自身のことが知りたい。私の話を聞いてもつまらないだろうと思っていました。
思いを変えたのは、師の言葉と罹患前にオファーをいただいていた講演会でした。ちょうど術前化学療法が始まって二ヶ月目。髪は抜け、ウィッグなしで人前には出られなくなっていたころです。
「病気になった不幸な私の話を聞きたいのだろうか?人前に出ていいのだろうか?」
ギリギリまで悩みましたが、病気になったからこそやってみようと腹が座ったら、どんどん物事が進んでいきました。
講演会は病気のことを伏せても話せる内容でしたが、当日、師匠が病気のことを話したほうが良いと提案してくださいました。勇気が出ず、どうしようと思いながら講演会を進め、最後に乳がんに罹患したことをお伝えしました。その時、一気に会場の雰囲気が変わり、温かく力強い雰囲気に包まれました。
「私の体験を伝えることは、誰かの役に立つのかもしれない」そう感じました 。
生きて、伝えていくこと。本来やりたかったことに気づけた瞬間でした。
クライアントさんや生徒さんには常に「人は全員幸せになるために、生まれてきた」 という共通した使命があるとお伝えしています。幸せになるために生きること。あなたは幸せでいて良い。これが私の伝えたいことです。乳がんに罹患したことは本当に悲しいことでしたが、病気になったことで本来持っているパワーを取り戻すことができました。
愛は、手の中にある
私は20 代で両親を亡くしました。また、一人っ子で独身なので、病気になった時は正直なところ一体どうなるんだろうと不安に思うこともありましたが、
「あなたの病室にはいつも人がたくさん来てたね。ずっと人がいて休めなかったんじゃないの?」
と、今でも主治医に言われるとおり、叔母やいとこ、友人たち、患者仲間、職場の方々、師匠と、生きてほしいと願ってくれる人たちに囲まれていました。ただ、生きていてくれればそれでいいから、と勇気づけてくれる人たちがいたのです。
がんになることが宿命だったのであれば、神様は私が一番楽に乗り越えられるように、たくさんの小さなラッキーをいたるところにちりばめていてくれたのだと思います。愛は、遠くにあるのではなく、手の中にあったのです。
再建の道
再建手術は、エキスパンダーという拡張器に少しずつお水を入れて膨らませ、皮膚が十分伸びた頃に受けます。私の場合は約八ヶ月間エキスパンダーを入れていました。乳頭乳輪がなく、つるつるとした見た目でしたが、ふくらみがあるだけで気持ちが楽でした。
当初は、保険適用になった人工物のシリコンへの入れ替えを予定していました。シリコンだと短期間の入院で済むし他に傷ができないなどの利点があるからです。
その頃、たまたま参加した国立がんセンターでの乳房再建セミナーで、太ももをドナーにして自家組織再建をしている方々にお会いする機会がありました。実際に触らせていただ いたり、傷を見せていただいたりして、「太ももが細くなっていいかも♪」くらいの軽い気持ちで、再建の担当医に自家組織の再建に興味があると相談しました。
「自分の体のことだから、いろいろ考えてみましょう。力になるよ。」
担当医はこう言ってくださり、自家組織再建ができる医師に診察を入れてくださったのです。
診察していただいた結果、広背筋を使った自家組織再建の提案をいただきました言葉で上手く表現できないのですが、形成外科の主治医に会った瞬間「あ、この先生なら大丈夫だ」と心の声が聞こえたのです。
治療を受けるにあたって心掛けたことは、遠慮はしない、疑問は主治医に質問する、自分の要望をはっきり伝える、の3点でした。また、再建するにあたってこだわったのは、健側との左右差が出ないことでした。背中の広背筋皮弁を使った再建手術は、約5時間。入院は2週間でした。
術後は、痛いというよりか、術側の腕が筋肉痛だなぁと感じていました(笑)術中は始終、腕を固定されているからなのでしょうね。術後の胸は、元のより良いかも?と思うくらい綺麗でバランスがとれていました。私の主治医はスーパードクター だと今も思っています。
念願の温泉旅行
2020 年3月、乳輪乳頭の再建手術を受けました。これが本当に最後の手術。現在は全行程が終わり、無治療・経過観察のみとなっています。
乳がん告知から、約3年。⻑いと思っていた治療も、あっという間でした。私の友人たちは、私ががんだったことを忘れかけているようです。「そっか、乳がんだったんだっけ」 と言われます。
乳輪乳頭ができたら、堂々と温泉に入る!というのが私の夢でしたので、憧れのホテルリゾートにも行ってきました。いつもは胸を隠すように入っていた温泉も、腕を大きく伸ばして入ることができました。7回もお風呂に入って、湯あたり起こしました(笑)
新しい胸は、私の自慢となりました。また、胸になってくれた背中の大きな傷に感謝をしています。私の体、治療を乗り越えてくれてありがとう。よく頑張ったね。普通に生きることは、奇跡なのだと思います。
「病気であってもなくても、幸せに生きる」一見シンプルな考えですが、人は、幸せになるために生まれてきたことや命に限りがあることを時々忘れてしまうのかもしれません。一人ひとり幸せになるために生まれてきていますが、願っているだけではダメなのです。生きているうちに今すぐ自分のパワーを取り戻し、幸せになるのだと覚悟するのです。私の体験を聞いてくれた方に通して、「自分の本来のパワーを取り戻す」気づきをプレゼントしたい思います。
附田 香織 Kaori Tsukuda
アメリカ留学を経て、外資系企業の経理職として勤務。
31歳の時に、心理や色に興味を持ち、スクールへ入学。現在は、会社員として働きながら、セラピストの育成、メイクレッスン、ダイエットカウンセリング、講演等を行っている。
両親は他界し、一人っ子、独身の天涯孤独。健康な体が財産だと自負していたが、2017年にまさかの乳がん罹患。何も持ってなくても、病気でも、幸せに生きると決めている。心理とメイクアップで「幸せに生きる人」をサポートしている。