[Survivor Story] Tomoko Iida

[Survivor Story] Tomoko Iida

(Japanese Text Only)

病気に思い悩む時こそ、好きなことに没頭してみて

私が、乳がんに気づいたのは2003年。看護師として勤続20年を迎え、15日間の特別休暇をいただいて、アメリカに旅行をした後のことでした。海外ではずっとシャワーだったので、休暇の最終日はのんびりお風呂に入ろうと向かった温泉で、何気なく乳房に触れた時のこと。コリっと、硬いしこりがあったのです。定期的な自己触診やマンモグラフィー検診はしていなかったので、本当に偶然の発見でした。それでもその時は「ちょっと気になるけど、明日から仕事だし、どうしようかなぁ…」くらいの気持ちで、まさか乳がんだとは思いもしません。

翌朝、勤務先でお土産を渡すついでに友人に話したら、「今すぐ、先生に診てもらった方がいい」と言われて事態が急変。スタッフから不在期間中の報告を受ける間もなく、慌てて診察室へ。すると先生は触っただけで、「これは、乳がんだね」って。普通の患者さんには言わないのでしょうけれど、私が医療従事者だったので、ハッキリおっしゃられたのでしょう。「1cm弱の小さいものだから、心配することはない」と言ってくださったのですが、動転していて冷静に聞くことができず、ただ、ただ、唖然としていました。何しろ、急な展開でしたから。診察についていた看護師から「どうする?」と聞かれましたが、どうするも何も…。「治療するしかないですね」と話して、そのまま針生検や超音波検査を受けました。

結局、私の乳がんのサブタイプはHER2陽性で、乳房温存術をすることが決まりました。乳がんの位置的に温存できるか難しいと言われましたが、「温存だろうが全摘だろうがどうでもいいから、早く手術して早く復帰したい!」「とにかく、早く次に進んで欲しい!」いう気持ちの方が強くありました。周りの人も主人も、がんと聞いて心配していましたが、私は落ち着いていました。「がん=死」というイメージがあるかもしれませんが、適切な治療をすれば完治する確率はとても高いことを知っていました。私は病気について悲しんだり、焦ったりすることなく、仕事や休暇の調整をしてから、入院して手術をしました。手術後も、夕方からご飯を食べて、トイレにも自分で行けるくらい元気でしたし、1週間くらいで仕事に復帰!自分でも驚いたくらいです。

むしろ大変だったのは、仕事をしながら受けた放射線治療の方でした。患部がヒリヒリするし、熱いし、痛いし、腕は上がらないし…。患部が気になって、落ち着いて働けないのです。治療開始から2週間は、何とか仕事と両立させましたが、残り3週間は休職しました。この放射線治療の間、私はずっと同じ乳がんの友人が欲しかったのですが、入院は個室でしたし、放射線治療に通ったときも知り合うことができませんでした。それじゃあ、とインターネットで乳がんの方を探したことから、後に乳がん患者会を一緒に立ち上げ、アロマテラピーの本も共同執筆した、千葉治子さんと出会えたのです。

優雅な別世界で、QOLがアップ!

千葉治子さんは、2000年に乳がんと告知された私の5つ年上の女性です。インターネットで知り合った乳がんの方に誘われて、千葉さんご自宅のオフ会に伺ったのが始まりでした。会場は綺麗にテーブルセッティングされて、そこには私の大好きなピンクの小物が!集まった皆でおしゃべりしつつ、素敵なお料理やビーズの時計作りを楽しみました。はじめて試したアロマテラピーも良い香りで、その場ですぐ注文。花の名前もよく知らなかった私ですが、次もアロマの会をリクエストして、ウキウキ、ルンルン気分で帰宅しました。とにかく千葉さんのオフ会は、私にとって優雅な別世界!お昼休みは10分15分でサンドイッチを食べて終了。平日はほぼ外食という看護師の生活とは全く違いました。だからこそ、おしゃれな空間でゆったり過ごした1日は、放射線治療中だった私のQOLを格段に高めてくれたのです。放射線治療は大変でも、楽しい会に行けば気が紛れると気づいた私は「これは、楽しむしかない!」と決意。千葉さんとお茶やイベントに出かけたり、メディカルアロマテラピーの勉強を開始したりしました。

そんな楽しい休職期間が終わると、いよいよ化学療法の開始です。私の場合は働きながら、金曜にFEC療法を受けました。薬はエピルビシンとシクロホスファミド、フルオロウラシルを使用。放射線治療ほど辛くはなかったのですが、脱毛や吐き気などの副作用は出ました。治療の当日と翌日は何も食べられなかったし、約3週間後には髪も抜けました。そんな治療期間中も、知り合った乳がんの方とお出かけの企画をしたり、ブログで応援コメントを出し合いながら交流を続けていました。そして、6クールの化学療法が終わった後は、ほぼ年休が無い状態に。治療が終わった後は定期検診を受けながら働いていましたが、1年ほど経った頃、私に今度は異動命令が出たのです。

我慢をやめて、自分のために生きる

この異動がキッカケで、私は長年お世話になった勤務先を辞めました。再発する可能性も考えて、「我慢しないで、自分のためにやりたいことをやろう」と思ったのです。当時、医師が出した私の10年生存率は「93%」。そう悪くない数字だと思われる方もいるかもしれませんが、「100人いれば7人は死ぬ」と考えると、シビアな数字です。仕事はやりがいがあるけれど、平日に開催される乳がん仲間とのオフ会に行けなかったり、我慢することも多かった。忙しすぎる仕事のせいで、病気になったのかもしれないと感じるところもあり、異動を機に、「いったん離れたほうがいい。自分のために、自分のことをしよう」と退職を決意。仕事を辞めてからは、フラワーアレンジメントやクレイフラワー、料理、アロマテラピーの勉強と、とにかく予定を入れまくりました!とても忙しかったけれど、好きなことだから全く苦にならない(笑)

そんな日々の中で、大きな転機になったのが株式会社エイボン・プロダクツのプロジェクト。私が放射線治療中に「保冷ブラジャーを出したほうがいい」と言っていたのを覚えていた同僚が、エイボンのプロジェクトへの応募を勧めてくれたのです。「私のように、治療の苦痛に悩む人が少しでも減ったらいい」という願いで応募したら、嬉しいことに採用が決定!内側に柔らかいジェル状の保冷剤が入るブラジャー、『パルフェ』を考案して制作しました。可愛いブラジャーにしたくて、ボランティアスタッフでワンポイントの刺繍もしました。放射線治療中の方にブラジャーの試着をしていただいたら、私の時のような苦痛を感じた方がいなかったので、本当にやって良かったと思います。この『パルフェ』は、東京・中日新聞に掲載されたおかげで、名古屋からたくさん注文を頂きました。さらに、私たちがアロマテラピーの資格を持っていて、乳がんの方向けのセルフケアの講習会も行っていたことから、「名古屋でもやって欲しい」とリクエストをいただき、名古屋で講習会を開催。これを皮切りに、千葉さんと内輪で行っていた乳がんの方向けのアロマテラピーの会を、外にも広げていったのです。

病気になっても、1人じゃない

千葉さんには、乳がんの方のためにアロマテラピーの本も出したい、という希望がありました。『「あなたは乳がんです」「生存率はこれくらいです」と言われると、本当にどん底に突き落とされた気持ちになってしまう。でも、そのことばかり考えるのではなくて、もっと前向きに考える方が良いと思う。私たちがやって良かったと思っていることや、対症療法について、そばで助言してあげられるような本を作りたい。情報はインターネットにも書いているけれど、ネットを見られない方のために本にして届けたい」』というのが、千葉さんの想いで私は、それに強く共感しました。病気になって分かりましたが、たとえ家族や友人がいてくれても、真の気持ちはどうしても、同じ病気の人同士でないと分かってあげられないところがあるのです。「病気になっても1人じゃない。そっと寄り添う私たちがいる」「アロマテラピーという役立つ手段もある”という千葉さんの想いを、一緒に伝えたかったのです。

しかし本の企画は、なかなかうまく進みません。そのうち、乳がん再発後も元気だった千葉さんの気力や体力が衰えてきました。一方、私はやりたかったことをやり終えて、保健同人社で働き始めていました。そこで千葉さんのために何かできればと、勤務先に本の企画を持ちかけたところ、出版が決定!それからは、2人で様々なイベントに出かけて本の宣伝をして、執筆も共同で行いました。彼女は、病床でも本に使う写真を選び、最後まで懸命に取り組んでいましたが、残念ながら、本の完成前に亡くなられました。完成した本を手に握らせてあげたかったことは、今でも悔やまれてなりません。亡くなられてから数日間は、私は人から話しかけられるたびに涙ぐんでしまうことが続きました。職場でも「今日は帰っていいよ」と言われたくらい、やりきれない思いでした。千葉さんが亡くなってから本ができるまでの約半年間は、寝ずに残りの執筆・編集作業が続きました。夜中に監修の先生と打ち合わせをして、友人と一緒に「千葉さんが言いたかったことは?」と考えました。とにかく大変だったので、色んな方に見ていただいた最終のゲラは今も手元に残しています。こうして完成した『乳がんの人の心と体に 素敵にアロマテラピー』は、私の宝物。この本を残してくださった千葉さんに、本当に感謝しています。私は今も、彼女と一緒に頑張っている気持ちなので、講演やイベントに行く時は、必ず千葉さんの写真を持って行きます。

アロマテラピーは、自分と向き合えるツール

千葉さんと一緒に立ち上げた乳がん患者会「Ruban Rose」は、昨年NPO法人にすることができました。今後はさらに、活動内容を充実させていきます。乳がんの早期発見のための取り組みとしては、銭湯でのアロマ石けん作りや自己触診法の講座、大人のがん教育講座を開催。それから『乳がんの人の心と体に 素敵にアロマテラピー』をテキストとした検定試験の実施や、アロマテラピー講師の方との連携、「Ruban Rose」のためにオリジナルで作っていただいたピンク・クレイを使った乳がん患者さん向けのセルフケア講習会など、新しい活動もたくさん予定しています。アロマテラピーは、心身を癒す高い効果がある素晴らしい手法。使用する精油は分子量が非常に小さいので、生命活動を司る脳にダイレクトに届き、皮膚を通して毛細血管に入り、全身に効果を発揮してくれます。その高い効果を、もっと多くの方に届けていきたいです。

私は長年、「Ruban Rose」の活動をしてきましたが、自立している女性が多いのか、ほとんどの方が講習会に1人で申し込まれます。最初は不安そうでも、だんだん笑顔が出てきて、参加者同士で友達になって、最後は皆さんで楽しくお茶を飲みに行って。私とその人だけの関係で終わらず、他の方と繋がっていく姿を見るのは、とても嬉しいことです。皆で集まる会の間は、病気や辛いことは忘れて、ワクワクする楽しさを分かち合うことを大切にしています。もちろん、病気で本当に気になることは話した方が良いし、個別の相談も受けますが、最終的には病気の治療は自分で決めなければなりません。今はお医者さんも、「どういう治療をしますか?」と聞いてきますし、自分でじっくり考える必要があります。けれど、人は考えれば考えるほど、迷って悩んでしまうもの。そんな時は、何か好きなものに没頭してみて欲しいんです。私自身、悩んだ時は大好きなハンドメイドに集中して、悩みを忘れるくらい没頭することで、頭と気持ちをスッキリ切り替えてきました。だから「Ruban Rose」は、皆で色んなことを楽しむ会にしています。アロマテラピーや手作りの体験を通して、好きなことを楽しむ気持ちや、病気になっても1人じゃないということを、伝えていきたいです。

振り返れば、私が乳がんと言われてから15年が経ちました。病気になって良かったとは言えませんが、「キャンサーズギフト」をたくさんいただいたと思います。仕事一筋の頃は世界が狭かったけれど、病気になって様々な人と出会い、数々の経験をしました。ここまで来るには時間が必要でしたし、時間が解決してくれたこともあります。寒い冬は咲かない植物が、春になったら花を咲かせて、夏には緑になり、そして季節がまわっていく。冬が来れば必ず春が来る。植物が裏切ることなく、必ず芽吹くのを見ると嬉しくなります。看護師時代は感じられなかった自然との繋がりを感じ、「何か人のために、できることがあるのではないか?」と、考えるようになりました。自分でも、ずいぶん人間らしくなったと思います。

最後に、乳がんになった方にお伝えしたいのは、前向きでいて欲しいということです。人は、様々なことが起きて変わっていきます。乳がんだと分かったら、まずは前向きに治療して欲しいし、1人で悩まず相談して欲しい。乳がんは、早く手術して取り切れば問題ありませんし、QOLも下がりません。病院で病気に向き合うのが怖い時は、アロマテラピーも役に立ちます。ハンカチにラベンダーの香りを落として病院に持って行けば、やさしい香りで気持ちが鎮まるので、リラックスして結果を聞き、冷静に判断できるようになります。私には、自分と向き合うためのツールとしてアロマテラピーがありました。何かあった時は、ぜひアロマテラピーを活用してみてください。

<飯田智子さん プロフィール>

2003年、大学病院に看護婦として勤務していた時、乳がんと告知されて手術を受ける。
その後、乳がんの仲間と共に、乳がん患者をサポートする活動を開始。
放射線治療中のほてりを緩和する保冷ブラジャー「パルフェ」の考案・制作や、乳がん患者会「Ruban Rose」でアロマテラピーやハーブを使った「素敵にアロマテラピー」の講演会やがん教育など、多くの活動を行っている。

乳がん患者会・NPO法人 Ruban Rose 代表理事
NARDアロマテラピー協会認定アロマインストラクター
NARDアロマテラピー協会認定校 SALON DE SOPHIA 主宰
千葉治子・飯田智子著『乳がんの人の心と体に 素敵にアロマテラピー』保健同人社

PHOTO_Hiromi Ando
TEXT_Tomoko Iida