01 4月 [Survivor Story] 矢方美紀さん
PiNK Winter 2020
TEXT: Miki Yakata
これが私の生き方「自分らしさ」を忘れない
私は、大丈夫!
私は、病気にはならない。このまま変わらない生活が続いていくんだと思っていました。そんな矢先、2018年の冬、25歳の時に乳がんに罹患しました。症状はしこりがあるだけなのに、痛くも痒くもないし、何より体調も良いのに、診断結果はがんだった。診断された時は、カラダとココロのすれ違いにすごく複雑な気持ちを覚えました。
病気に気づいたきっかけは、何気なくやってみた「セルフチェック」。2017年、フリーアナウンサーの小林麻央さんが乳がんで亡くなったというニュースをテレビで知りました。乳がんは、自分には関係ない。あと20年後ぐらいから意識して対策をしていけばいいことだと、他人事のように感じていましたが、麻央さんの訃報を知った時、自分の中にあった「私は大丈夫!」という思いが「私は大丈夫かな?」という疑問に変わりました。疑問に思ったものの、今すぐ病院に行くのか?いや、それは違うと思い、まずはセルフチェックをしてみることにしました。
お風呂に入ったときに、胸に異常が無いか手で触って調べました。初めのうちは、「何をやってるんだろう、自分」「何も無いに決まってるのに」という思いがありましたが、左胸を調べていると固いしこりが胸の左上にある事に気づきました。触ってすぐにしこりだとわかる大きさで、すごく固い。どれくらい固かったんですか?とよく聞かれますが、例えでいうと「ビー玉」の固さでした。それでも、痛みが無いことに少しホッとして、しばらく様子を見ることに。1週間後、再び気になって触ってみるとやはり変わらず、しこりがある。嫌だけど一度検査をしてもらおうと思い、病院に問い合わせましたが、タイミングが悪く予約が取れませんでした。そこで、「しこりはあるけど痛くないし、まあ大丈夫か。時間がある時に行こう」と言い訳をつくり、行かないことにしました。
行動することの大切さ
2017の年末、仲の良い友人の集まりに参加したときにしこりのことを話すと、友人から「明日にでもちゃんと病院に行ってみてもらったら?」と言われ、「そんな、大げさだよ」とも思いましたが、何故かその時は素直に行こうと思い、翌日病院へ行きました。その結果、検査でステージ1の乳がんだということが分かったのです。その時、「大丈夫なんてない」ということと、「できる事から行動することの大切さ」を実感しました。
手術
乳がんだと分かってから、「仕事は?手術は?治療は?」と、考えることが増えました。まずは、再度検査です。マンモグラフィー、エコー、MRI検査、そして脇のリンパ節への転移を調べるセンチネルリンパ生検。病気だと分かっていても、さらに細かく検査をすることが、当時は嫌で嫌で仕方ありませんでした。「でも、やらなければ。わからないこともあるから受け入れなきゃ」と自分に言い聞かせていました。検査の結果、リンパ節への転移が見つかったことでステージ2bとなり、手術の選択をする時が来ました。見つかった当初は、全摘はしなくてもよいと思っていましたが、実際に転移していたことやAYA世代の若年性の乳がんであることから、全摘という言葉が現実味を帯びてきました。
乳腺外科の担当医から手術のパンフレットをもらい、帰宅して読みました。とても分かりやすくまとめられていて、不安と理解を繰り返しながら読んでいましたが、手術方法や再建の選択について読んだ時に初めて「やっぱり胸を切るなんて恐ろしいことは、嫌だ!私は絶対したくない!」と泣いてしまいました。しかし、病気を家族や友達に打ち明けて様々な意見をもらったことも思い出し、「このままじゃダメだ、決めなきゃ!」と決意を固め、全摘手術を選択しました。
嫌だと思うとすぐに落ち込む事ばかりを想像してしまうのですが、母に「もし手術したら再建もするし、あんた胸小さいから大きく作ってもらえばいいんやないの?」と言われたこともありました。「娘に向かってなんてこというんだ?」と思う方もいるかもしれませんが、「手術はすることになるし、もし再建するなら今より大きな胸も確かに良いかも!」とポジティブに考えられる自分がいました。結果的に、遺伝子検査や再建、その後の治療など、様々な選択を限られた時間で決断しなくてはいけないと知ったことで、再建はゆっくり時間をかけて考えれば良いと思うようになり、手術は全摘のみを選択しました。そこからは、片方の胸がないイメージトレーニングを行う日々が続きました。
治療開始
手術後、3週間ほど経って病理検査の結果が分かりました。結果は、ステージ3a。想像していた結果ではなく、ただただ驚きました。今まで主治医の先生と話して泣くことはなかったのですが、正直、その時は涙がこぼれそうになったのを覚えています。ご飯も食べれるし、仕事もできるし、好きな音楽も聴けるし、アニメだって観れて何も変わらない生活なのに、なんで。
「今の自分を受け入れるしかない」と思い、今後の治療について説明を受けると、抗がん剤から始まり、放射線治療、ホルモン療法というフルコース。「こんなに治療をして逆に私の身体は大丈夫なのかな?」と不安しかありませんでしたが、きっといつか治療が生かされる日が来ると考え、治療を受けました。
抗がん剤
抗がん剤治療がスタートしてからは、脱毛の悩みが最初の壁だと思っていましたが、そこは違いました。脱毛以外に、副作用で乗り越えなければいけないことがたくさんありました。実際のところ、髪が無くなる覚悟はしていて、前もって対策やウィッグなどについてインターネットで調べて準備をしていたので、治療開始から10日ほどで抜けた時も乗り切ることができました。ただ、髪が抜けた頭をどうケアすべきか、抜けてからしか分からないものです。頭皮への刺激が寝られないくらい痛かったり、お風呂を上がってから頭をしっかり拭いたのにも関わらず、気づいたら汗が滝のように背中に垂れていたり。時期も夏だったこともあり頭皮の匂いが信じられないくらいのもので、どうすれば良いのか全く分からなくて、ただ嘆いていました。
治療の後は、ぐったりして起きれない事や、むくみが全身に出てしまう事、爪や皮膚の変化、食べ物の味覚や匂いが変化してしまった事、生理が一時的に来なくなってしまった事、消化器官も薬の影響で何日も便が出なくて苦しい日々が続くなど、次から次に起こる変化に動揺することもありました。
アピアランスサポート
治療の間、悩みが絶えない中で私にとっての心の支えになったのは、アピアランスサポートの存在です。
病気を公表した際に、NHK名古屋からのお声がけで「#乳がんダイアリー矢方美紀」という番組がスタートしました。リアルに自分が悩んでいる事や思っていることを映像として日記形式でHPに更新していく。自分もわからないことだらけで不安だけど、番組を通して1人でも多くの方に乳がんという病気について知っていただきたい。病気に罹患しても、夢や諦めたくないことを日々続けているこんな人もいる、ということを番組を通して多くの方に知っていただけるのかなという希望もありました。
映像日記の中で、脱毛の悩みを打ち明けた際に出会ったのがNPO法人全国福祉理美容師養成協会、通称「ふくりび」さんです。番組のディレクターさんから「矢方さんがウィッグや髪の毛の悩みについて相談できる場所が愛知にもあるので、行ってみませんか?」というお言葉がきっかけで、ふくりびさんの施設「あぴサポあいち」にお邪魔したのが始まりでした。そこには、理事長の赤木勝幸さん、事務局長の岩岡ひとみさんがいました。普段の悩みを打ち明けたとき、正しいと思ってやっていたことが実際は間違っていたことや、ウィッグを使う際は自分に合うものを選ぶことの大切さを教えていただきました。
ふくりびさんのウィッグもそのときに初めて被りました。家族以外の人に脱毛してしまった頭を見せる抵抗がありましたが、説明やウィッグのお手入れをしてくださっているうちにだんだんと心の壁がなくなって、「自分でなんとかしなきゃ。誰かに悩みを相談したら迷惑だ」と今まで思っていた気持ちがすっとなくなったのを覚えています。
このときから、私の頭に合わせてウィッグをつくっていただいたり、ファッションに合わせて長さやカラーもアレンジしていただいたりしました。その日に合わせてウィッグを変えることで、脱毛中もモチベーションを上げて過ごすことができましたし、髪だけでなく、ネイルやメイクの方法についてもアドバイスをいただきました。抗がん剤治療中に友人の結婚式への参列があり、ウィッグのヘアアレンジを普通の美容院でお願いするのは少し勇気がいるし難しいと感じていた時も、ふくりびさんでヘアセットをしていただいた時は本当に嬉しくて、ウィッグを気にすることなく楽しい時間を過ごす事ができました。普段の生活で気をつけることや、心の悩みを聞いてくださったことも、自分の心の支えになっています。
続く治療
抗がん剤と放射線治療を終了し、現在はホルモン療法を行っています。ホルモン療法では1日に1錠、薬を飲み、3ヶ月に1回お腹に注射をしています。治療は意外と楽かと思っていましたが、この治療は10年間。あと9年ほど続きます。
ホルモン療法が始まってから、ホットフラッシュと言われる現象が常に起こっています。急に体がガッと熱くなってきたり、イライラしたり。そんなに気にならないだろうと思っていましたが、移動中に汗だくになってしまったり、温度調節が上手くできず、周りと体感温度が違ったりする事はとても大変です。こればかりは「周りが気を使ってよ!」なんて言えないですし、言ってしまうのは身勝手だと思うので、普段は薄着で着脱できる服装や冷たい飲み物を常に持ち歩いて、体の中から冷やして体温を下げたりしています。病気にならないとわからない悩みもあるんだと、すごく感じています。
仕事
病気になってから色々な悩みや心配はありますし、正直ゼロになることはないと思います。でも、今も前を向いて進めているのは、変わらず仕事ができている事が関係していると思います。
「さあこれから声優の夢へと本格的に向かっていこう!ナゴヤから自分を発信するんだ!」と思っていた矢先に乳がんに罹患し、「夢も希望も…絶望的だな」と思っていました。もう仕事は絶対できないだろうと思い、これからどうしたら良いのかもわからなくなりました。そんな時、悩みを主治医に話したところ「治療をしながら仕事もできますよ、仕事は辞めなくても大丈夫ですよ」と言ってくれました。その一言が私に希望を与えてくれて、治療はどうなるか分からないけれど、無理しない範囲で仕事を続けることにしました。
乳がんだと分かってからレギュラー出演していたラジオやお仕事を1ヶ月ほどお休みしていましたが、退院した当日にZIP-FM「サブカルキングダム」というラジオの収録現場に見学で参加し、1週間後には、この番組で仕事に復帰することができました。現在もこの番組に出演させていただいています。
「無理はしない」を一番に体調とスケジュールを上手く調整して、今も変わらず仕事を続けています。その中で自分のことを話す機会も増え、初めはどのように伝えれば良いのかとても悩みましたが、この1年で知り合った同じ乳がんサバイバーの方とお話した際に「美紀ちゃんの発信が私の希望だし、本当に嬉しいの!ありがとう!」と言っていただいた事がありました。 私は何も持っていないけど、こうして出会えたことや、抱えている同じ悩みや思いを、より多くの人に知ってもらうきっかけにこれからもなれたらいいなと思っています。
自分がやりたいことに挑戦する
今、仕事もプライベートも好きなことを日々追いかけています。きっとこの先も病気は切っても切れないものだと思いますが、今の私だからこそできることを発信したいです。その中の一つがファッション。私は元々、ファッションが好きですが、乳がんがあってもなくても関係なく、オシャレできるアイテムが必要だと思います。例えば、下着。胸を手術したことをきっかけに、今まで使っていた下着を処分しました。今はカップ付きのキャミソールを2枚重ねて過ごしています。自分にとってもそうですし、誰かが笑顔になるきっかけづくり、これがあってよかったと思えるモノ作りに挑戦していきたいです。これが私にできる事なんだと思います。
未来
1秒先も分からない日々が、これからも続きます。この1年で私はたくさんの方に出会い、支えられ、成長することができました。きっと1人ではここまで変わる事ができなかったと思います。日々の中で当たり前のように起きる出来事をそのままにするのではなく、変化を恐れず、これからも矢方美紀にしかできない事やモノを生み出していきたいです。
矢方 美紀 Miki Yakata
1992年6月29日 大分県出身
7年半所属したSKE48を卒業後、タレントとして活動を始める。
2018年4月、25歳の時にステージ2Bの乳がんにより、左乳房全摘出・リンパ節切除の手術を受ける。
「自身の身体を知る」ことの重要性を伝えるとともに、がんになっても夢を諦めない、前向きに生きている姿を日々発信している。
現在は、テレビやラジオ出演・ナレーション・MC・講演会当、名古屋を拠点に全国的に活動中。