[Survivor Story] 下川美佳さん

[Survivor Story] 下川美佳さん

PiNK 2020 Spring Issue
TEXT: Mika Shimokawa
PHOTO: Sora Shimizu

生まれ変われるなら、生きているうちに

「これは検査です」

私の乳がんは定期健診で見つかったものではありません。私の左乳房には20代前半のころから「何かコロコロするもの」がありました。まだ乳がん検診受診の啓蒙なども活発ではない時代でしたが、自主的かつ定期的に乳腺外科に行っては検査を受けていました。検査のたびに「良性のものです。心配ありません」と言われホッとしたのを覚えています。

ところがしばらく検査に行けない時期があり、なんとなく「コロコロするもの」が大きくなったような気がして久しぶりに検査を受けたところ「精密検査が必要」と言われました。色々な手法で検査を試みたのですがなぜかうまくいかず、良性か悪性かの判断がなかなかつきませんでした。担当の医師は業を煮やしたのか、「検査のために必要なところを切り取りましょう。そのためには全身麻酔で1泊の入院が必要です。少しですが乳房の変形もします。」と言い、検査のための入院を勧めてきました。

当時の私は「検査のために全身麻酔をして入院する?検査なのに乳房が変形する?」と戸惑うばかりでどうしても理解できず、何回も「それは検査ではなくて、摘出する手術なのではないですか?」と担当医に質問したのですが、「これは検査です」の一点張りでした。説明を求めてもまるでその検査しか選択肢がないような話しぶりで、検査で乳房が変形することに抵抗がある私と担当医の間の溝はそのまま埋まることがなく、担当医に対する不信感が募りその病院に出向くことをやめてしまいました。今でもこの選択が正しかったのかわかりません。

やっぱりがんだった

その後、私生活でつらい時期がやってきました。元夫の不貞が発覚し精神的にも肉体的にもボロボロになり、悲しみと苦しみに耐えるのに精いっぱいで将来のことなど考えられない日々で、自分の健康のことなど気にする余裕がまったくありませんでした。

しかし離婚調停が進み結論が見えてきたころに、健康な自分を取り戻して新しい人生を始めようという前向きな気持ちとなり、しばらく後回しにしていた乳腺外科の受診を決心しました。偶然にも前回の担当医に診てもらうこととなったのですが、検査結果を聞きに診察室へ入った瞬間、医師の表情から良くない結果であることが伝わってきました。そして直感通り、医師は険しい表情のまま「がんですね」と診断を下しました。その結果は衝撃というよりも「やっぱり」との思いが強く、診察室にいた看護士さんのほうが動揺しているようにさえ思えました。

医師からはステージ1の浸潤がんであること、手術は全摘か部分切除で、部分切除の場合は放射線治療が必要であること、がんの顔つきが凶悪なので抗がん剤治療が必要であることの説明を受けました。私が手術による乳房の変形のことを気にしていることを伝えると、あたかも「命に係わる問題なのに見た目にこだわっている場合なの?」と言わんばかりのあきれたような表情をされたため、「この医師とは理解しあうことは出来ない。絶対にこの医師の手術は受けない」と決心し、手術をしてくれる別の病院を探すことにしました。

募る焦り

ただでさえ離婚騒ぎで心配をかけている両親に、がんが見つかったことを知らせるのはとても心苦しく感じました。しかしこんな大事なことを隠しているわけにはいかないと思いなおし、なるべくわかりやすい言葉で客観的な事実のみを説明しました。両親は驚き、動揺していましたが、姉が「心配しすぎるのもよくない」と両親をなだめ、私の気持ちを汲み取り「自分自身が選択した方法で希望の治療を受けるといい。経済的な心配はいらないから」と後押ししてくれました。

それからは図書館で標準治療ガイドラインの本を読み漁り、インターネットでは乳がんの症例を検索する日々が続きました。ここはと思った病院には予約をいれ受診しようとしましたが、そもそも予約が数か月先までとれない病院や、受診できても手術は半年後しか受けられない病院などがあり、病院探しは想像以上に難航し焦りが募りました。そんな中、とてもきれいな再建の症例を掲載しているクリニックのウェブサイトにたどりつき、そこで「皮下乳腺全摘+同時再建」という方法を知りました。それはまさに自分が望んでいた手術でした。ダメ元でクリニックに電話したところ数日後に予約の空きがあったため急遽有休をとって受診することにしました。担当の医師からは私の症例でも皮下乳腺全摘と同時再建が可能であること、入院は1泊、3週間以内に必ず手術できるよう手配すると説明があり、迷わずその場で手術の予約をしました。

検査を重ね治療方針を決める

今でも手術台に上った時のことを鮮明に覚えています。がんと診断された時泣きはしなかったのに、手術台で担当医から始めますよと声をかけられた瞬間、「やっと手術が受けられるんだ」と緊張の糸が切れたのか涙が溢れ出て止まりませんでした。

手術は無事に終了しがんの診断には変わりはありませんでしたが、リンパへの転移はなく悪性度も高いものではなかったため抗がん剤をするかどうかは自分で決めるよう説明がありました。自分では判断がつかなかったことから、当時は保険適用されていなかったオンコタイプDXという検査を受け、統計学的には抗がん剤をしてもしなくても生存率に変わらないケースということがわかりました。そのため私の治療方針は抗がん剤なし、全摘のため放射線治療もなしで、ホルモン受容性の高いタイプのがんだったためホルモン療法のみとなりました。また姉の勧めもあって遺伝性乳がんについての検査も受けましたが、こちらは陰性と診断されました。

家族をつくりたい

手術も終わり、再開した離婚調停も結審して区切りがついたことから、何か始めようとゴルフスクールに通い出して出会ったのが今の夫です。

知り合って間もない頃に、がん治療中であると伝えることに戸惑いはありませんでしたが、結婚を意識し始めた頃に、妊娠そのものががんの再発リスクを高めるため妊娠や出産ができないことを伝えるのには勇気がいりました。しかし二人で将来を描きながら色々と話をするうちに、産みたいのではなく子育てをしたい、家族をつくりたいという共通の思いに気づいたのです。様々な形の家族が身近にいたためか血のつながりへの拘りがなく、不妊治療は最初から私たちの選択肢にはありませんでした。

夫は建築設計士で児童養護施設の設計に関わった経験から、生まれた家庭で育ててもらうことのできない境遇の子どもたちがたくさんいるということを知り、自然と特別養子線組という選択に至りました。しかし特別養子縁組までの道のりも平坦ではありませんでした。

特別養子縁組で母となる

特別養子を育てる養親となるには、都に養子縁組里親登録をして児童相談所からの紹介を待つか、民間の斡旋団体に登録するか、主にこの二つの方法があります。私たちは結婚してすぐに養子縁組里親の講習を受け、同時に民間の斡旋団体探しも始めました。しかし民間の各斡旋団体においては独自の厳しい養親の審査基準を設けており、これが私たちにとって大きなハードルとなりました。例えば共働きは不可(母親が育児に専念すること)、不妊治療をしたことがなければ不可、年齢制限など、私たちが養親としての応募条件を満たせない団体が少なくありませんでした。

そんな中、応募条件も満たし活動内容のポリシーにも共感できる団体があり応募したところ順調に話が進んだのですが、あと一歩で登録というところで私たちの婚姻年数が短いという理由から断られてしまったのです。婚姻年数の条件を満たすまで待っていたら今度は年齢制限を超えてしまう。後がない私たちは何とかならないかとその団体と交渉を続けました。私たちが無理を言っているのは重々わかっているし、団体の担当の方も電話口で困っている様子がうかがえました。でも、今ここであきらめたら子どもを迎える可能性がなくなってしまうと必死にお願いを続けていると、団体の代表の方が替わって電話にでて「うちでは無理なのですが、素晴らしい信念を基に活動されている方々が最近斡旋団体を発足されたので紹介しましょう」と提案してくださったのです。

私たちはすぐさま紹介された斡旋団体の代表の方に連絡をとりました。これまでの事情を伝えたところ「まずは会ってお話をしましょう」と面談をセッティングしてくれました。面談は終始和やかで、年齢や収入、婚姻年数などの条件だけで判断するのではなく、会ってみた印象や私たちの思いを何よりも重要視してくれていると感じました。そしてその団体への登録が認められ幸運にも男の子を迎えることができ、さらに幸運なことに翌年には女の子を託されたのです。新生児から育てた子どもたちは5歳と4歳になり、傍から見れば普通の親子が普通の毎日を過ごしています。

小さな喜び

私はどちらかというと子どもが苦手なタイプで、親戚の子どもと会った時も何をどう話したらよいのかわかりませんでした。ある日突然新生児が我が家にやってきてまさにてんやわんやでしたが、子どもたちと一緒に暮らす毎日は小さな喜びに満ち溢れていて苦手意識など感じることすらありませんでした。

子どもたちが通う保育園では連絡帳を使って保育士と保護者が連絡を取り合うのですが、ある時ずっと文章で書いていた子どもの様子を1コマ漫画で描いたら、見る保育士さんも楽しいんじゃないかと思い立ち、軽い気持ちで漫画にしてみました。絵のほうが読み返したときにこんなこともあったねと思い出しやすく、何よりも漫画のネタ探しのために「子どもたちが今日こんなことを言ったんだよ」などと夫婦で報告しあうのが日課になり、思いがけない副産物となりました。

家事・育児に関しては「夫婦が完全に同等にできる」ことを目指しています。もちろん各々得意分野は異なるのでそのあたりはうまく比重を分散しますが、もともと料理や裁縫も得意な夫だったので育児についても安心して任せられ、最近では夜の外出もできるようになってきました。ここまでくるのには試行錯誤がありましたがとにかく話し合って、進むべき道を一緒に考えてくれた夫には感謝です。

特別養子縁組は子どもの福祉のための制度ですが、乳がんをはじめとする様々な病気があることで妊娠出産について思い悩む人たちに、子どもを持つための選択肢の一つとしてもっと知られるようになればいいなと思っています。そのためにも私たちが託された子どもたちを大切に育て社会に還し、良い前例の一つとなれたらいいなと思います。

一日一日を大切に

現在術後9年目で、タモキシフェンによるホルモン療法も残すところ2年をきりました。振り返ればいろんなことがありましたし、これからも様々な問題がでてくるでしょう。でも、今の私は「何があってもとりあえず何とかなるんじゃないかな」という気分です。

以前の私は何をするにも慎重派で消極的、何か新しいことを始めるというよりは、始めない理由探しばかりをしているような人間でした。ですが、がんが見つかって自分の命に限りがあることを実感してからは、とりあえずなんでもやってみようかなという気持ちが強くなりました。お恥ずかしい話ですが、気ままにひとりで過ごしていたころは明日も今日と同じ日がやってくると漠然と思っていたし、なんでも後回しにしていたように思います。

それが今では、できることは早いうちにやろう、やりたいことや好きなことはどんどん周りにアピールしよう、そうすればいいお話が舞い込んでくるかもしれない、とまで考え方がガラリと変わりました。もちろん時には過去の自堕落な自分にもどってしまうこともあるのですが、年に1回の精密検査で問題なかったという結果をきくたびに初心に帰ります。健康でいられることに感謝し、まさに「生かしてもらっている」と感じます。一日一日を大切に過ごしたいという思いも強くなり、日々の生活で何か冒険できることはないかな、とアンテナをはるようにもなりました。私にとっては砂漠やジャングルを探検するようなことだけが冒険ではなくて、たとえば駅から自宅までのルートを変えてみる、ランチで目新しいメニューをオーダーする、今までの自分ならお断りをしたようなお誘いでも積極的に受けてみる、などのなんでもないことの小さな積み重ねが冒険や挑戦だと思っています。

乳がんが見つかってから手放したものもあれば、手放した分、新たに手に入れたものもあります。乳がんにならなければ出逢うことのなかった方たち、経験することがなかっただろう素晴らしい機会、変化した人生観など、枚挙に暇がありません。乳がんが見つかったこと自体は私にとって衝撃的な事実であることに変わりはありませんが、自分が変化する大きなきっかけになりました。

ピンチはチャンスとよく言いますが、何か障害が立ちはだかった時に、自分で考え、信頼できる人ととことん話し合って、ひとつずつ地道に乗り越えてきたのが今の自分につながってきたと実感します。陽当たりのよくない、曲がりくねった細い道を、時には双六の「ふりだし」にもどるような経験をしながらもなんとか知恵を絞ってしぶとく歩いてきました。もしかするとちょっと変わった道のりだったかもしれませんし、これからもまた平坦ではないこともあるでしょう。でもその分、一味違った景色を見て来られたのかもしれませんし、これからもなにが起きるか楽しみです。まだまだ冒険は続きますね。

下川 美佳 Mika Shimokawa

東京都在住
2011年11月皮下乳腺全摘、同時再建手術を受ける。金融業界でのSEの経験を活かし、現在は保険関連のビジネスアナリストとしてとして奮闘中。乳がん治療中に知り合った夫とともに特別養子縁組で二人の子どもを迎える。一方、高校生のころからマイナー雑誌への漫画連載で小遣い稼ぎをしていた超長期休筆中の漫画家でもある。最近になってようやく重い腰をあげ、ブログで乳がんが特別養子縁組について発信中。

好きな言葉は「生まれ変わるなら生きているうちに」



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