01 4月 [Survivor Story] 加藤千恵子さん
PiNK Fall 2019
TEXT: Chieko Kato
これが私の生きる道 〜がんになったからできること〜
私が乳がんの告知を受けたのは、41歳の秋でしたが、しこりに気がついたのは、その1年以上も前のことでした。左に硬いしこりがあり、生理になるとかなり痛みがありました。痛いのは乳がんではない。そう思い込んでいた私は不安に思いながらも、病院に行くことはありませんでした。
当時の私は仕事が忙しく、中学生の子供の受験、家事と目まぐるしい日々。自分のことを考える時間や、病院にいく余裕などはなかったのです。会社の健康診断で、マンモグラフィー検査を選択しました。初めてのマンモグラフィーで、痛みの原因がわかればいいなという軽い気持ちで受けました。
検査からほどなく、「すぐ精密検査を受けてほしい」と電話連絡がきありました。新規プロジェクトの第1回目の会議の途中でした。「すみません、私明日から出張で2週間後にいきます」と伝えたところ、「そんな時間はありません」と言われました。
上司に報告してたところ、すぐにでも検査に行くように言っていただ頂き、その日のうちに資料を取りに行きました。画像を見ると、たところキラキラと光るようなものが写っていました。「きっと石灰化に違いない。何かの間違いに決まっている」と言い聞かせ、翌日は地元の乳腺外科へ行きました。
診察室に座る間もなく、医者はマンモグラフィーの画像を見ただけで「がんがあるね。」とあっさり。「一応細胞検査をしますが、99.9%がんですね。仕事しているなら休む段取りを考えておいてね。1cmセンチくらいのがんがんだけど、あなたは胸が小さいから温存できないよ。全摘します」頭の中は真っ白になってしまい、「え?乳がん?私が?胸を取ってしまうの?」と思いつつも、「今から出張に行かなくちゃ。プロジェクトを外されたらどうしよう」と現実的なことも考えていました。
とにかく両親に謝りたいと思った私は、その足で実家に出向き、「乳がんになってしまってごめんなさい。」と泣きながら説明をしました。自宅に戻ったところ、子供たちが心配そうに待っていてくれたので「乳がんになったけれど、お母さんは大丈夫だから安心して欲しい」と話し、「これから仕事だから」とスーツに着替え、出張先に出向きました。それからは仕事の合間に、乳がんについて調べる日々。「とにかく胸を失いたくない!」その一念で必死に病院を探しました。
内視鏡が良いいいのではないか?、何とか温存ができないのか?
病院もをいくつかまわりましたが、行きました。どこの医師にも「胸より命」だと言われてしまいます。1cmしかないのだから全摘してしまえば生きられるよ。なぜ迷うのか。なぜ手術しないのか。
私はこんなにも胸を失いたくないのに、誰もわかってくれない。毎日絶望した気持ちで過ごしていました。
当時は、乳房再建が保険適用される前で、私がの住む愛知県では、再建不毛地帯と言われるほど再建手術ができる病院がありませんでした。あっても手術費用が高額で、250万円のところもありました。私は家を新築したばかりで、子供は受験生。これから高校、大学と費用がかかるのがわかっている。そして何より、いつまで生きられるかわからない私が「胸」に拘って大金を使うわけにはいかないのではないか。時間がどんどん過ぎていくことに不安もあったので、「胸は諦めよう」とそう決めて毎日泣いて過ごしていました。
治療の不安も重く圧し掛かってきます。「抗がん剤治療は辛いのか?」「仕事は続けられるのか」「胸を失ってどんな気持ちで生きていったらいいのか」ネットをで見てもブログを読んでも気持ちの整理がつけられず、乳がんを体験した人と話がしたいと思いました。聞きたいことや話したいことがたくさんありました。
そこでインターネットで患者会を探して、いくつか数カ所に連絡をとったところ、「病院の患者しか参加できない」「不定期で、いつやるかわからない」「相談には乗れない」などと、いくつか断られてしまいました。私はまた絶望した気持ちになりました。どこにも誰も私の味方がいないと、そんな風に思いました。一生がんの再発を恐れて生きるより、このまま乳がんを放置して死んでいきたいと思ったほどです。もちろん子供を置いて死ねるわけなどないのですが。
実は私は子供のころからいくつかの大病をしていますが、「死」と向き合ったことはありませんでした。大きな手術やケガを経験しましたが、自分が死ぬなんて考えたことはありませんでした。しかし、がんを患ってから「がん=死」という考えが頭をよぎることもありました。乳がんはいくら生存率が高いとはいえ、自分に当てはまらないかもしれない。いつしか、「残りの人生は人のために生きたい」と考えるようになりました。
病院を探す間も仕事は続けていました。ふと気を緩めると泣いてしまいそうでしたが、仕事に打ち込んでいるときは乳がんを忘れることができ、仕事に救われたと思っています。
また人にも救われました。ある友人は再建手術ができる病院を探してくれ、ある友人には「貯金は全部あげるから受けたい手術を受けてほしい」と言ってもらいえ、毎日のようにお守りや健康に良いと言われているものが届きました。
私の想いや、友人の想いが私を導いてくれたのか、皮下乳腺全摘同時再建ができるクリニックを受診することができました。医師は私に、「乳がんは生きられる病気。長く生きていくことができるから乳房は失わない方がいい」と言ってくださいました。我が意を得たと即座に手術を決めました。
家族や友人は、私をひやひやした気持ちで私を見守ってくれていたことでしょう。手術日が決まったときはら、皆が、涙を流して喜んでくれました。自分ひとりだけで生きているのではないと強く実感しました。
病理の結果は当初言われていた「1cmの初期がん」ではなく、2.5cmが2か所の多発性のがんだと分かりました。私はホルモン治療を選択し、リュープリンとフェアストーンを飲みました。
たかがホルモン治療と思っていましたが、副作用がひどく、自分がどこにいるかわからなくなる症状が出る見当識障害や、全身の関節の痛み、不眠、頭痛に悩まされるようになりました。特に関節の痛みが強く、携帯電話が持てずに落としたり、階段から落ちてケガをしたりすることもしょっちゅうでした。
仕事の効率が落ちていることを気付かれたくなくて必死でした。一日が終わり、家に着くと、玄関先で痛みのあまり泣いてしまいます。そんな私を見て、子供たちは「仕事を辞めたら?」とを言ってくれたこともありました。
しかし、苦しみや痛みはすぐに改善するものではありません。会社を一日でも休むと、明日から次の日はもう行けなくなるのではないかという恐怖があり、絶対に休まず行こうと心に決めていました。
会社を辞めてしまったら、社会復帰ができなくなるいのではないかという不安もありました。
その頃の、自分の体験から、患者同士が集まる場所を持ちたいと考えており、主治医に話をしたところ、クリニックの一室を貸していただけることになりました。これをきっかけに、そして、どこの病院の方が来てもよい定期的に開催される患者会を設立しました。闘病ブログを書いていましたので、 患者会を設立した際には、私の顔を見に来たと全国から大勢の方が参加してくださいました。
患者会、会社、家庭という3本柱で、毎日がさらにハードになっていきましたが、患者会に大勢の方が参加してくださり、「こういう会を待っていた」「患者会に救われた」と言っていただ頂くことが私のエネルギーとなり、よりパワーアップをしていきました。
患者会は定期的に開催をされています。(設立当時は月3回、現在は月6回)乳がんになったばかりの方も多く参加されます。どうしたらよいていいか分からず泣くばかりの方が体験者の話を聞き、気持ちを整理して前を向いていくようになります。また体験者は、自身の体験が次の誰かを救うことに気づき、経験したことが無駄じゃなかったと乳がんを受け入れていくようになります。
患者会の名前は「テッテルーチェ」と名付けました。テッテはイタリア語でおっぱい、ルーチェは光です。暗闇でどうしたらよいのか分からない患者さんたちの希望の光になりたい、という想いが込められています。
患者会には年間で延べ1,000名くらいの方が参加されるようになりました。そんな中、乳がん患者の中に未婚の方が大勢いることに気づきました。「いつか良いいい人と結婚するだろうと思っているうちに年齢を重ねてしまった」「子供も欲しいと思っていた」「結婚しておけばよかった」「結婚したかったと」と、深い悲しみの中におられるいる方が多くいます。母親同伴で来られる方も多く、お母さまが「結婚をさせておけばよかった」と泣かれます。なんて悲しいのだろう。「結婚したいという」その願いを叶えることができたらいいのに。
患者会は良くもよくも悪くも大盛況で、メールや電話での相談も毎日のようにありました。患者会がない日でも、必要であれば夜でも会いに行きました。乳房再建を知って欲しいと企画した講演会は、患者会に救われたと言ってくださった患者さんたちと一緒に開催しました。講演会などやったこともない素人の私たち。PCの使用もままならない方は教室に通ってまで尽力してくれました。それもこれもすべては患者さんたちを救いたい一念によるものです。
私は副作用と闘いながらですが、会社と家庭、患者会を運営し充実感を味わっていました。そんなとき会社から、もっとやって欲しい仕事があるから試験を受けないかと言っていただきました。願ってもいないチャンス!認めていただけたことが嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいでした。
仕事は私にとって、なくてはならないものです。生活のためでもあり、生きがいでもあります。
もっと頑張りたい、チャレンジしたい。しかし、これ以上仕事が増えることに体力の限界を感じました。副作用も日々辛さを増しています。
患者会をやめることも考えました。しかし、がんを告知されたときの苦しみや、「患者会に救われた」と言ってくれたいう皆の笑顔が浮かんできます。亡くなってしまったがんの仲間も思い出し「もし患者会をやめたら私は一生後悔するだろう」と考えました。そこで、せっかく頂いたチャンスを蹴って会社に残るのも違うのではないかと考え、退職を決意しました。
またこの時期、副作用の痛みと不眠が限界を達し、2年で投薬を中止しました。本来であれば5年~10年の治療期間でしたので、心残りはありましたが、これ以上の痛みに耐えながら8年間を過ごすのは無理だと判断しました。
私は、起業をして結婚相談所をつくりました。がん体験者が仲人するがん体験者のための結婚相談所です。がんを体験した苦しみに寄り添い、一緒に前を向いて婚活に取り組むみサロンです。がん体験者と健常者の方との結婚。難しいように思われるでしょうか?全然そんなことはありませんでした。
むしろがんを体験したことで、人に対する感謝の気持ちや、生きていることへの感謝の気持ちを持った方々は人間的に成長していることが多く、どの方にも望まれてご結婚していきます。結婚された方々は「がんにならなかったら結婚できなかった。がんになってよかった」とおっしゃるほどお幸せになられています。
乳がんになったばかりのころは、恐怖と不安で泣いてばかりいました。人生を悲観して、いつまで生きられるのかと、そんなことばかり考えていましたが、今では、いつその時が訪れても後悔しないように、力の限りやりたいことをやって生きたいと思うようなりました。乳がんは悲しくて不幸な出来事だと思います。乳がんになって良かったとは一度も思ったことはありません。でも、「なっても良かった」と思えるようになりました。
これからも患者会と結婚相談所を通して、皆さんの希望の光になりたいと願っています。
加藤 千恵子 Chieko Kato
乳がん体験者の会
NPOテッテルーチェ理事長
名古屋在住
2010年10月皮下乳腺全摘出同時再建。
自身の体験から乳がん患者のための患者会を設立。
患者会は名古屋、三河、大阪にて月に4回開催し、年間延べ1000名の患者と出会う。
啓発運動にも積極的に参加、行政や企業からの講演会の講師としても活動。
がんの結婚相談所では全国の方の相談に乗っている。
好きな言葉は「愛と感謝」
出会った方に感謝の気持ちを忘れず、何事も面白がって生きていきたい。
何事にもチャレンジしていきたい。
食スタイルは糖質コンロロール、グルテンフリー。
アンチエイジングと健康に気をつけ、アドバイスも行っている。
暗闇にいる方々の希望の光になれますように。