サバイバー・ストーリー:金井俊子さん

サバイバー・ストーリー:金井俊子さん

FROM PiNK SUMMER 2017 p.4-p.7 (オンライン雑誌はこちらをクリック)


『感謝・感激・雨あられ』

乳がんになってから、7年という年月が経ちました。私は今、53歳。同じ年の主人と21歳の息子と、3人で暮らしている一般の主婦です。今は、乳がんになる前に、ひとりで切り盛りしていた飲食業(カフェ&カラオケスナック)を、5人のスタッフの協力を得ながら、営業しています。

実は、この店をオープンして1年ほど経った頃、私の乳がんが見つかりました。

その前は、時間に追われることにすっかり慣れてしまい、また郵便封書で自宅に届いている国からの定期無料検診にもまったく関心を持たないまま日常を過ごしていたので、乳がんの検診は受けていませんでした。また、テレビなどの情報番組で検診について頻繁に取り上げられていましたが、検診を受けようとも思ってはいませんでした。たぶん自分の周りに乳がんになった方が少なかったのが、私が関心を持たなかった1つの理由かもしれません。

私の場合、片胸だけではなく、両胸のちょうど真ん中に乳がん発見されました。乳首のちょうど真下にあり、自分で触診してもわかりにくい場所でした。それまで、私が思っていた乳がんのイメージは、乳房の周りに固い豆みたいなしこりができる、というもの。そう勝手に思い込んでいたのです。

なので、自分の胸の左右の乳房の中央にビー玉くらいのしこりがあるのと、わずかな乳首の陥没をなんとなく感じながらも、あまり心配することはなく、日常を当たり前に過ごしていました。しこりは生理の周期毎に、大きくなったり小さくなったりしていました。

しかし、店を始めてからしばらく経ってから、そのしこりが次第に大きく、硬くなってきていることに気づきました。その頃から少しずつ違和感や不安を感じ始めたことを、今でもはっきり覚えています。

同時期に、乳がんの特集なるものをテレビでやっていたので、ふと友人に自分の症状を相談すると、「早く乳腺外科のある病院へ行って、検査をした方がいいよ」と背中を押されました。それがきっかけで、某大学病院で検査を受けることにしました。

時間に追われつつも、日々のストレスは自分なりに上手く発散できているし、こうして健康なんだから検査をしても、きっと大丈夫。今の不安を取り除くだけに行くのだから——そんな気持ちで検査に臨みました。

検査は触診から始まり、マンモグラフィー検査に続き、超音波検査…。それで終わるかな?と思っていたら、乳房に針を刺して組織細胞を取って調べる精密検査にまで発展しました。念には念をということだと自分に言い聞かせ、最終的な検査結果が出るまで、1カ月待ちました。

そして運命の検査結果の日…。主治医に両胸の乳がんだと告知されました。
両胸の浸潤乳がん。右胸はHER2陽性、左胸はトリプルネガティブ。右の脇の下にあるリンパにも転移。

いずれも、ステージⅢの乳がんでした。

運命に裏切られたようなショックを受け、放心状態の私は、頭が真っ白になりました。これから受けなくてはならない手術や抗がん剤治療の細かい説明があっても、その時の自分の耳にはまったく入らないくらいに。

思い出せば、告知を受ける数年前から右手の痺れが酷くて、病院に行って手首にブロック注射をしてもらうなどの処置をたびたび受けていました。

乳がんの手術でリンパを取った後は、その痺れは無くなりました。そのリンパにできた腫瘍が神経を圧迫して手の痺れを引き起こしていたのかもしれないと後から思いました。

お店をやり始めたばかりで、多額なローンの返済もあるし、まだ中学校3年生の息子がいるのに…。そんなことを思うと、いてもたってもいられなくなり、家ではインターネットで乳がんのことを調べ、本屋に行っては乳がんの本を買いました。

セカンドオピニオンも視野に入れ、乳がん専門の病院、専門のドクター、その治療方法や手術方法、抗がん剤の種類や副作用、その症状や経過、乳がんになった人たちや家族のエッセイやブログなど、いろいろな情報をかき集めました。

告知を受けてから

告知を受けた時には、ビー玉くらいの大きさだったしこりが、左右どちらともピンポン玉くらいの大きさになっていました。

すぐに入院して乳房切除手術だと思っていましたが、先に抗がん剤治療でしこりを少しでも小さくしてからの方が、手術する時に身体の負担が軽くなるとの病院側の判断もあり、告知された次の診療からは、外来での抗がん剤点滴治療が始まりました。

手術までに投与した抗がん剤の名前は、最初にドセタキセル Docetaxel (タキソテール® Taxotere®)、次にFEC(フルオロウラシル〔5—FU〕+エピルビシン〔EPI〕+シクロホスファミド〔CPA〕)という2種類。3週間毎に1回投与する点滴治療を1クールと考えて、4回ずつの計8回。よって、およそ半年間続きました。

点滴治療を受けたところは、大学病院の中の腫瘍センターで、カーテンに仕切られたベッドや歯医者さんで座るようなリクライニング式の椅子がたくさん並んでいました。そこには、若い方から年配の方まで、がんの治療に来ていらっしゃいました。

その時に感じたことは、こんなにがんの治療を受けているひとが大勢いるのだという驚きと、それを仕事の合間に受けていらっしゃる方もいるということに、なぜか緊張感がほぐれたような気持ちになっていました。自分のがんを受け入れ、早く治して元気に復帰したいというそんな思いがとても伝わったのです。

臆病だった私も、そんな中に飛び込み、次第に点滴の太い針の痛さにも慣れていきました。 体調の変化としては、抗がん剤を投与してから段々と副作用が強くなり、10日目頃でピーク、そして徐々に副作用から解放されていくというような波が襲い掛かりました。

最初に開始したドセタキセルの点滴治療では、投与10日目頃から髪の毛が徐々に抜け始めました。爪の色もだんだん薄紫色に変色し、肌の色も浅黒くなり、顔色もくすんでいきました。白目も黄色がかり生気もなく、唇も肌も乾燥し荒れて、腕や足の関節、くるぶしは薄紫のあざができました。インフルエンザにかかったような関節痛がたびたび起こり、その疼痛で眠れないなどの睡眠障害が起こったため、痛み止めと睡眠導入剤のお薬に頼らざるを得ませんでした。

食欲も激減しました。なぜなら、自分の好きなものであっても、何を食べても、まったく味がしなく、おいしくなかったからです。治療の副作用で、味覚障害を起こしていたのです。

一方、2種類目として使用した抗がん剤FECは、ドセタキセルほどの強い痛みはありませんでしたが、全身のむくみが酷くて、逆に体重が5㎏ほど増えました。食欲はあり、食事は普通に取れていました。この頃から、治療開始からスタッフに任せ切りにしていたお店にも、少しずつ顔を出せるようになりました。

およそ半年間に及ぶ抗がん剤治療を受けた効果は、主治医の言ったとおりに、両胸にあった乳がんのしこりのうち、右胸のしこりは小さくなり、左胸の方は無くなったように感じました。しかし、実際のところ、左胸のしこりは無くなったのではなく、МRIで見てみるとがん細胞が線状に散らばっている状態でした。

当初の自分の希望は部分切除でしたが、両胸全摘出の結果となりました。

しこりは小さくなったものの、その時の状態もあまり良くなかったのか、両乳房摘出をしてすぐにシリコンを入れる同時再建はできませんでした。

命を取りました…。

つらい抗がん剤も無事に乗り越えられたのだから、手術なんて怖くない。胸が無くても生きられるのだから。

最終的に、乳房再建手術は1年後に見送られることとなり、抗がん剤治療が終わってからしばらくして、乳がんの全摘出手術に臨みました。

医師や病院スタッフの皆さんが私の身体や体力への負担を考慮してくださり、2回に分けて手術、片胸ずつ切除することとなりました。

1回の手術と、リハビリを兼ねての入院期間は約十日間。その1回目の入院が終わった後、数日間の自宅静養をし、2回目の入院と手術、計1カ月の入院期間となりました。

その入院期間中に、乳がんの友達が何人かできました。自分の乳がんの種類、ステージ、症状、転移、抗がん剤治療中の過ごし方、年齢、自分をサポートしてくれる周りや家族のこと、どんなウィッグ(かつら)を使用しているか、実践している免疫力を高める食事、お肌のケアなど、さまざまな観点から情報交換をしたのを覚えています。

手術、そしてリハビリを2回ずつ終えて、およそ1カ月の入院期間を経て退院しました。その頃には、胸の痛みも和らいでいました。
術後の傷跡が落ち着いて数カ月経ってから、今度は外来で放射線治療を受けることになりました。

わたしの場合は、トリプルネガティブと診断され線状の乳がんが見つかった左乳房に、60グレイの放射線を直接当てるという治療方法でした。治療は外来に通院するので、入院の必要はありませんでした。しかし、この治療法は、病院がお休みの時以外は毎日続けないと効果が上手く発揮されないということで、約1カ月半ほぼ毎日通院となりました。

放射線治療は、抗がん剤点滴治療に比べると天国でした。順番待ちをしている待合室には、がんの医療本から漫画までたくさんの本が置いてありました。自分が呼ばれると、ただ専用のベッドにあおむけに寝ているだけで、痛みもなく、時間は短いものでした。

毎回治療前に、放射線を当てる胸の部分にマジックペンで四角く印をつけていましたが、回を重ねるごとに四角に囲われた部分の皮膚は、日焼けのように真っ黒に変化していきました。

そして、放射線治療の終盤になると、当てられていた胸の真裏の背中側にも、くっきりと真っ黒に浮かび上がっているのを入浴中発見したときには、放射線が身体を貫通した威力を初めて思い知らされました。

抗がん剤治療も、放射線治療も、身体の中の悪いがん細胞を破壊するために受けましたが、抗がん剤で髪の毛が抜けたり、爪がぼろぼろになったりと成長が著しい部分に影響があり、また放射線も当てれば真っ黒になったということは、逆に考えれば健康な細胞もダメージは受けているはずです。私が治療した頃とはまた違う治療法なども出てきているらしく、 日々医療も進化を遂げている中思うことは、がんの患者さんが増えているということ、それと同時に人間の生命力が長くなったということに尽きるでしょう。

こうして放射線治療が終わると、再び抗がん剤の外来点滴治療が始まりました。この抗がん剤は、手術前に受けた2種類の抗がん剤よりはるかに副作用が少ないトラスツズマブ Trastuzumab (ハーセプチン® Herceptin®)というもので、約1年間(18クール)受けました。

告知を受けてから、ここまでに2年が経っていました。この年月を乗り越えて、身体が回復に向かったと確信したときに、乳房再建に臨むことを決めました。

再建といっても、いきなりシリコンを入れる手術はできませんので、エキスパンダーという器具を手術で胸に埋め込み、その器具の脇の管からその中に生理食塩水を入れ、徐々に皮膚をのばしながら、胸を大きくして、最後にエキスパンダーを取り出しシリコンを入れ替えるというものでした。

月に1回の割合で食塩水を入れてもらい、約半年間通い続けました。再建に至るまで計4回の胸の手術をしましたが、おかげさまで今は安定し、定期的な検査を受けるのみになっています。

私を救ってくれた一期一会

私は、昔から神社仏閣巡りの旅をするのが好きです。ひとりでも出かけたりもします。

乳がんを知らされて3年経ったある夏の日でした。仕事や人間関係で疲れ、入院中乳がんの病棟で知り合った友人の突然の死への悲しみ、自分が乳がんになり身体の中に大きな爆弾を抱えていて、それがいつ爆発するのではないかとの不安感…。そんな自分から少しでも解放されたくて、思い立ったときには、薬師如来様が奉られてある京都の神護寺へひとりでお参りに来ていました。

実は、乳がんの再発転移が怖かったのです。

告知されてからその時までは、熱が出たり、頭や胃やお腹が痛くなったり少しでも身体の異常を感じてしまうと、敏感になり過ぎて、すぐに病院へ行っては検査をし、異常がなければ安心して帰る日々を繰り返していました。

神護寺で駐車場を案内してくれたひとりの青年との一期一会が、私のこの不安を一気に取り除いてくれたのです。

その青年は、10代の時にこの寺が顕在する山で単独オートバイの交通事故に遭遇し、100日以上の昏睡状態を経験したそうです。奇跡的に回復しましたが、後遺症が残りました。引きずる足と、呂律が回らず上手く話せない様子がそれを物語りました。

私が運転してきた車の品川ナンバーを見て、女一人旅を心配して声をかけてくれたのでしょう。

「お姉さん、ひとり?ご家族は?」

そんな質問からお互いに徐々に会話が行き交うようになりました。

「僕は、この峠で事故を起こしましたが、このお寺で救われました。信じてもらえないかも知れませんが、このお寺まで続く長い長い参道(階段)を登れるようになれたんです。お姉さんは、この病気になられた時に、何で自分だけが?と思いませんでしたか?僕は事故を起こし、大怪我したことを自業自得だと思いました。なぜならこの峠をいい気になって危険運転で暴走していたからです。でも、お姉さんの願いはきっと叶います。こんな僕のお願いも叶ったんですから…。旅は帰るところがあるから、旅っていうのですよね。お姉さんも帰るところがあって幸せですね。」と、クシャクシャな笑みでそんな言葉を言ってくれたこの青年に、心を打たれ涙が溢れ出てきました。

一人旅に飛び立つ私の心情をわかっていたのか、余計なことは言わずに、ただ「気をつけて行ってきな…。」と、玄関先まで見送ってくれた主人と、そばで苦笑いをしながら見守ってくれた高校3年生の息子。私の中で当たり前だと思っていたすべてのことが、青年の言葉で感謝の気持ちでいっぱいになり勇気をもらいました。

「私は今生きている。ひとりじゃない」と。

がんを恐れて生きるより、がんを受け入れて前向きに変わっていったのです。

それからも、休みの度に自分が行きたい神社仏閣を巡り、手を合わせて祈る日々…。再発転移しませんようにという願いから、自分がこうして「ここ」に来られていることへの感謝の報告へと変わっていきました。

大切なこと

乳がんになって生活スタイルが変わったことと言えば、飲食業を営む自分にとって、ひとりで切り盛りしていたカフェ&カラオケスナックを日替わりマスターやママさんと一緒に運営するようになったことです。

当時は、まだオープンしたてのこのお店を辞めるか、闘病中休業するかと悩みました…が、名案がふと浮かび、自分の知り合いや友人に交代でお店を回してもらおうと頼みました。周囲の反対もありましたが、家族やお店のお客さま、スタッフの理解と協力のおかげで実現し、現在もこのスタイルを継続中です。

以前は、自分が乳がんになるなんて思ってもいませんでしたので、当然がん保険にも入ってはいませんでした。闘病中はどうせ長生きはしないだろうと思い、長年掛けていた年金保険を術後にすべて解約し、生きている証を残したいと、そのお金でCDまで作ってしまいました。

その証は、今の自分の心の支えとなっています。なぜなら、「年金を解約した訳ですから、もっともっと自分が年老いて死ぬまで働かなくちゃいけなくなった」と、笑って言える自分に変わっていったからです。

そして、私の趣味であるカラオケに、CD で出した曲が登録までされたのです。本当に嬉しいサプライズでした。
私が乳がんになって思うことも多々ある中で、逆にこの病気にならなかったら気づけなかったこともたくさんあったでしょう。

今は、がんと向き合いながら、前を向いて歩いてゆけるようになりました。自分の周りに、毎日感謝です。今後再発しても転移をしても、怖がらないでその時の自分を受け入れよう、と。


プロフィール

金井俊子

佐賀県出身。
父の転勤で、17歳で上京。高校卒業後、調理師学校に進学。日本料理店のウエイトレスやファストフードの営業などを経て、2009年に今は亡き義父が経営していた飲食店を継ぎ、5人のスタッフと運営。



パートナー